「言は肉となった」        2018年4月8日

     

     ヨハネ1:14~18  招きの詞ヨハネ1:1~5

 

 皆さま、お早うございます。今福さんも遠い所から、この小さな所を覚えて居て下さり心から感謝致します。加藤さんたちも、お嬢さんは光さんですか。礼拝に初めから来られたのは、初めてではないかと思います。本当に有り難うございます。永愛ちゃんも一緒ですし、良かったです。今朝は最近とは全く違う聖書の個所を選んでびっくりされたかもしれません。いつもマルコで、皆さんがマルコに飽きられてもいけないと反省しました。それで聖書をあちこち読みまして、このヨハネの冒頭の言葉に改めてびっくりしました。読んでみます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。」こんな事を誰かヨハネ以前に言った人が居たでしょうか。この全宇宙が言によって出来た、と言うのです。ヨハネ福音書はギリシア哲学の様な表現をしているとよく言われます。しかしギリシア哲学も言によって全宇宙が出来たなどとは言っていません。ソクラテスもイデアあとか魂とか言いますが、言葉によって全宇宙が出来たとは言っていません。私は改めて衝撃を受けました。私たち人間も言葉によって出来て命を与えられているという事です。言葉は神だとヨハネは言うのです。

 

 言葉が人間の創り主なのです。普通は私が言葉を選んで、或は人間が言葉を創り出して、人間が言葉を使う、そこが動物と違う所です。動物にも合図など連絡し合う事は出来ますが、先祖から子孫に何かを言葉で伝える、口伝も含めて、これは人間だけが言葉を作り出しました。それを人間が使うと考えています。でもヨハネは言葉が私たち人間を創ったと言っているのです。確かによく考えて見ますと、私は「言葉が人間を創っている」と頷ける気がします。言葉使いでその人が分かるとよく言われます。乱暴な言葉使いをする人は乱暴な人、嘘をよくつく人は、「あの人は人格的に信頼できない」というイメージを作り上げてしまいます。こう見ますと、言葉で少なくともその人が人々の間で創られていきます。ですから、人が言葉を創って使ってきたと思っていましたが、この私を創りだすのは私が使う言葉。時々乱暴な言葉を使いますので、私の言葉使いから私の人格をイメージします。その意味で言葉が人を創るというヨハネのこの言葉には傾聴すべき事が含まれていると思います。また単に私の人柄だけではなくて、言葉が社会を創り出しています。

 

 ここで使われている「言」はロゴスという言葉です。このロゴスに「魂・プシュケーpsyche」をつないで「魂の言葉」psychologyサイコロジーは「心理学」の事です。この様な言葉が「~~学」という様な学問を創っています。社会学はsocietylogos sociology と言います。テクノロジーもよく使われます。言葉が学問また社会を作っています。このロゴスはギリシア語では単に「言葉」の意味だけではなくて、議論、及びその問題点、道理、理 屈なども意味します。社会、つまり人間の歴史を創り出していると言えると思います。私たちには膨大なシステムとしての法律が有ります。法律こそ言葉です。この法律の体系にも幾つもの流れが在るようです。私個人に於いて、今まで歩んで来た道、これから歩む道、お年を召した方々もこれまで歩んで来られた長い道ですが、まだまだこれから歩む道が在ります。主が許して下さる限り、この世で生きなければなりません。その時に、私の人格を保つ事が出来るか。或は希望をつないで生きる事が出来るか。過去だけではなくて未来に向かう、その未来に向かう言葉を何処から私たちは頂いたら良いのか。

 

 言葉がイエスという人に生られた、「言が肉となった」という言葉は日本人には余りピンと来ない言葉ですが、イエスという言葉、人格が私たちに語って下さるのです。それは私たちの過去の苦難の時に、支えてくれる言葉でもありました。皆さまもいろんな道を歩んで来られましたが、イエスという言葉、或は聖書からの言葉が、聖霊を通しての言葉が、苦難を突き抜ける、一人の人間として通り抜ける事が出来た、という事が言葉の力です。聖霊を通して与えられた言葉の力です。今もその言葉に依って通り抜けようとして居られる方も居られると思います。そのように私たち一人一人の状況をイエスが言葉として見ていて下さる、言葉として語りかけて支えてくださいます。自分の知識だけの力では砕けてしまう、そんな人が多いです。いま社会を見ますと「一緒に死のう」とか、自殺を手伝うとか、生きて行くのが拓けて来ない時代の様です。でも私たちはイエスから「イエスという言葉・或は「イエスからの言葉」を聞く事で、私たちは耐え抜く事が出来たし、今もまたそうです。いろんな苦難の中で、「この先どうなるのか」という時に、イエスが言葉として、聖書を通し、或は聖霊を通して私たちに語り掛けて下さいます。

 

その意味で私という人間を創って下さる、この外の形を創られた事が人間を創られたという事では決してありません。「人として生きる」という事が人間を創るという事です。品性を失わないで、或は犯罪を犯さないで、何とか生きる力を頂く、その人柄としての力を何処から頂くか、更に希望を頂く事が出来るか、もう年を取ったから、もう終わりとは中々思いません。私も80才近くなっていますが、これからどうしようかとまだまだ悩んでいます。皆さまの中には私よりもご高齢の方々が居られますが、これからの事を思っておられる方も居られるでしょう。若い方々にも当然、これからどうしようと思われるでしょう。その時に何が導き手になるか。何が私を人として支えてくれるか。それが私たちには、「イエスの言葉、イエスという言葉」です。言葉がイエスになって下さったが故に、私たちに与えられている言葉を私たちは聖書を通して頂く、また聖霊を通して頂いています。そんな意味で、言葉がイエスと成った、つまりイエスは言葉そのもの、という事に何か広がりを感じられませんか。日本語とか英語とかいう言葉ではありません。イエスという命に関わる言葉、この言葉によってすべてが出来た、人として歩む、その人間性も創って頂いた。これからも創って頂く。その言葉こそイエスです。とヨハネは語っています。今度初めてこんな事を考えました。

 

最近は「イエスという憐れみ深い神」を話して来ましたが、憐れみ深い神で在られると同時に、何処か、力強い、背筋をグッと伸ばして私を見る姿勢で、私たちに語り掛けて下さるイエス、言葉、全世界、全宇宙を創って下さった方、言葉、これを初めてヨハネから頂きました。今までヨハネ福音書の冒頭の言葉を覚えてはいました。今までもどんなに苦しくてもイエスが一緒に居て下さいましたし、これからも私たちがどの道を歩もうとも貴方を支えるよ。聖書を読んでご覧、或は祈ってご覧、時には教会に行ってご覧という形かも知れません。それはイエスが言葉として、皆様方に「臨んで居られる」、つまり皆様方を「創る」、過去の事だけではなく、未来に向けて刻々と私を創って居て下さる、その力は全宇宙を創られたイエスの力です。その力が私に迫っていて下さる。天の神は、私達の事を忘れては居られません。すべては「言葉」に依って出来た、それに依らないものは何一つなかった。その壮大な力、その言葉がイエスとなって私たちに語り掛け、私たちを創り、私たちと一緒に居て下さる、それをヨハネが伝えていてくれます。

  

皆さまが苦しかった時に支えて、これからも支えて下さり希望を与えて下さる、全宇宙を創られた力強い言葉イエス・キリストを心から感謝致します。 アーメン