「罪人を招くために」              2021年1月17日

    マタイ9:9~13    招きの詞 マルコ6:21

 

 皆さま、お早うございます。コロナ感染症はまだまだ全然収まりませんね。福岡県も昨日は過去最高で400名を超えています。政治家も4人以上の会食は控えようと言ったその日に、博多でお偉い方々が9名で高級なフグ料理の会食をしたそうで、これでは全く収まりませんし、示しがつきませんね。政治家は会食がお好きです。国民は納得できないですね。亡くなる方も多いです。世界ではもう200万人を超える人々が亡くなっています。こんな状況で、収まる様に私たちは慎み深く生活しなければなりません。それは自分が感染しない事だけではなく、医療関係の方々の負担が非常に大きいですし、病床も一杯いっぱいで、医療崩壊が既に起こっている地域も在ります。命の順番を決めなければならい場合も在るようです。

 

 今朝の聖書の箇所で、イエスも久しぶりにご馳走に預かっています。徴税人マタイの家で食事をしました。徴税人はローマ帝国の手先です。通行税など様々な事に税金を掛けるのに、その煩雑な仕事を、請け負わせていました。実際には、決められた以上のお金を取り立てたり、逆に見逃す代償の袖の下で、かなりな収入が在り、多くの人から嫌われ軽蔑されていました。ルカ福音書はザアカイという徴税人の長が、イエスに名指しされて大喜びでイエスをもてなす話です。でも四福音書の中に、ご馳走を食べる話は、そんなには出て来ません。各福音書に一つか二つくらいの話が出て来ます。ヨハネ福音書では2章に、カナという所での婚姻が在って、イエスは母共々呼ばれています。こんな事も在りますが、四福音書に共通して出てくるのは、イエスが5千人、4千人に食べ物を与える話です。イエスご自身が食事に呼ばれる事も在りましたが、イエスも4千人、5千人に食事を分け与えているのです。先ほど読んだ箇所には、「徴税人や罪人も大勢やって来て」と在ります。直ぐ罪人と分かるのでしょうかね。どんな人たちが罪人と言われているのか、と思いましたら、気仙沼の山浦ドクターは「ガリラヤのイエシュー」という題で、四福音書を訳しています。気仙語を中心に東北弁、盛岡弁、長崎弁など登場人物に合わせて方言を分けて使っているのですが、その部分を、プラスして、罪人を具体的に上げています。「ご覧あれ。(嫌われ者の)貢ぎ取り仲間や(その同類の)世の中の余され者ども、すなわち、最下層の貧乏人、下衆ゲス、下郎ゲロウ、無宿者、浮浪者、乞食コツジキ、かたわ者と女郎、夜鷹の類い、渡世人、こそ泥、やくざ者などが大勢(まるでハエが群がるように)、寄り集まって来て、イエシューさまとお弟子たちと同じお膳に着いてござる。イエシューさまが自分たちの仲間を差別するどころか、信じ難いことにその一人を弟子に取り立て、共に同じお膳を囲むという親戚同然のつき合いをしてくださるのに驚き、喜び、かくてその座は彼らの笑い声で満ちあふれ、歌い踊るお祭りの如き騒ぎと相成り申した)と訳されています。

 

同じ宴会でも、領主ヘロデの宴会も招きの詞で読みました。これも山浦先生の訳を引用しますと、「ところで、ヘロデアス御前にとっては願ってもないよい折がめぐって来た。ヘロデ殿は、自分の生まれ日の祝いに、高位高官たちと軍兵千人組の侍大将たちとガリラヤの主だった旦那衆とを呼んで宴げを催した」と、そのメンバーは偉い人たちばかりです。この二つの食事会は全く顔ぶれが違います。食事も違うでしょう。ユダヤ人は普段、立場が違う人たちとは一緒に食事をしません。仲間と見なされるからです。特に汚れた人たちとは食事を共にする事は在りませんでした。ですからファリサイ派の人たちが、「どうしてこんな人たちと一緒に食事をするのか」と尋ねるわけです。するとイエスが直接、「医者が要るのは病人だろう。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人、正しくない人を招くために来たのだ」と言いました。イエスが罪人を招くのは、宴会の場面だけでは在りません。イエスの眼差しは、その人たちだけではなくて、他の所、遠い所にもちゃんと向けられていたのです。一人とか、少数の人たち、マイノリティーと呼ばれる人たちにも向けられていたのです。現代でも少数で在るが故に差別される人たちが居ます。そんな人たち、しかも遠方にいる人にも眼差しは向けられていました。

 

聖書の巻末地図6を見て下さい。イエス時代のパレスチナの地図です。ガリラヤが在り、その上の方にフェニキアと在ります。そんなに遠くない様に見えます。しかし実際はこれを見て下さい。(手書きの地図で、山々を書きこんでいます)途中に高い山々が在るのです。それを越えて行かなければなりません。エルサレムも山の上に在ります。ガリラヤからは何処へ行くにも高い山々を越えて行かなければなりません。佐賀県に背振の山を越えて行くようなものです。そんな遠方のシリア・フェニキアに一人の女性が居て、娘が悪霊に取りつかれて苦しんでいました。山を越えなければなりません。そこまで出掛けて、その女性に出会いました。それだけではなく、他にもマタイ9章には12年間、長血を患っている女性の話が在ります。医者にも治してもらえず、お金を取られるだけで、すっかりお金も無くなります。女性はイエスが来られたと聞いて、イエスの衣に触れば治るだろうと、そっと触る話があります。こんな、山の向こうの遠くで、たった一人で悩んでいる人、貧しい人、困っている人を訪ねて行く眼差しを持っていたのです。2千年前の険しい山道を越えて、山賊や強盗たちもいた事ですし、野獣も居たでしょう。

 

 

罪人を招くために、とは、決して宴会などに人を呼び寄せての話だけでは無いのです。ご自分が出かけて行って、招いたのです。イエスは遠い人で在れ近い人で在れ、眼差しを向けられていた、しっかり見ておられたのです。ここを今朝のお話のポイントにしたいと思います。収税所は通りに面した場所に在ったようです。そこに座っているマタイを見て、「私に従いなさい」と言うと、マタイは直ぐ従いました。簡単に従った様にも見えますが、イエスがマタイを見られた時、その眼差しはマタイの心の中まで、届いたのではないでしょうか。マタイは徴税人ですから、人々から嫌われていました。仕事も決して楽しいものではなく、ローマの監督も厳しかったでしょう。ですから充実した気持ちは無かったと思われます。心に「すき間」と言いますか、「空洞、空白、満たされない気持ち」があったのではないか。そのすき間に差し込むように、イエスの眼差しが入り込んだのではないでしょうか。その途端にマタイは、惹かれるようにイエスに従う決断をしたのだと思います。イエスの眼差しがマタイを動かした。如何でしょうか。マタイには従うように言われ、フェニキアの女性には、娘の癒しを、その出会う人毎に、対処されました。一人一人に何が必要なのか判断されました。その人の問題を見つけて下さったのです。「招くために」と言われても、人々が来るのを待つだけでは在りません。自ら出かけて行って、その人に応じて、招いて下さるのです。孤独な一人に対して、少数者マイノリティーに対しても、イエスは心底、出会って対応された。イエスは罪人を求めて、一人悩む人を求めて、少数の問題ある人を求めて、動いて、招く、つまり、受けて下さる方です。それは、一人ひとりに、人の苦しみ悩みを見抜く眼差しが向けられているのです。それが「罪人を招く」お働きの中身です。アーメン