「平和を祈る」             2019年6月23日

                沖縄:慰霊の日 

 

ヨハネ16:31~33  招きの詞 マタイ5:1~10

 

 皆さま、お早うございます。今朝初めてのぞみの礼拝に出席して下さった方、久しぶりの方々、またいつも出席して下さる方々、有り難うございます。今日は御存知のように沖縄の慰霊の日です。そこで「平和を祈る」という題にさせて頂きました。イエスがあの沖縄戦の様子を見て、腸ハラワタが千切れる様な思いになったと思います。沖縄は今も戦時下に在ると思います。米軍全体が世界のあちこちで戦闘状態です。基地で溢れる沖縄はそれに組み込まれています。また、未だに占領下にあるとも言えます。沖縄の米軍には特別の地位が与えられています。本国の基地はアメリカの法律に従わなければなりません。日本の米軍は日本の法律に従う必要は在りません。沖縄戦での日本人の犠牲者は、今188,136人となっています。犠牲者には軍人ではないのに戦闘に加わった人が55,246人、一般の人が38,745人とされています。毎年増えています。米軍にも戦死者はいます。沖縄の人々が日本軍に依る犠牲が出た事は忘れる事は出来ません。

 

 スティーヴン・スピルバーグ監督が、一般の映画館では上映されなかったと思いますが、「太平洋戦争」The Pacific war という太平洋で戦った海兵隊員の姿を描いた長編の映画を作りました。戦場の過酷さを描きますが、沖縄の戦場の様子も描きます。銃弾を受けて死にそうな女性がアメリカ兵の銃を握って、自分に付きつけて、自分を早く殺せという場面もあります。その米兵は本国に帰り、父親と鳩撃ちに出かけますが、いざとなると彼は銃が撃てないのです。父親が「今日は鳩にはラッキーな日だね」と言います。この兵士は後に生物学を学んで生物学の教授になった実在の人物です。米兵も例え生きて帰っても、凄い精神的な傷を負うわけです。日本軍が守るべき沖縄の人たちも、赤ん坊が泣くので、米軍に見つかるから壕から出て行けと迫られたりもしています。日本兵が自分たちを守るために住民を犠牲にしたわけです。

 

 平和を祈る事は、戦闘や戦争が無い事を祈る事、その様な事を起こさない様にと祈る事です。しかし今も生きて居られる犠牲者の家族の方々の悲しみや痛みを知り、共にする事、これも平和を祈る事だと思います。この方々と同じ痛みを覚える事は出来ません。人の痛みは簡単には自分のものにはなりませんし、逆に私の痛みは他の人には中々分かってもらえません。しかしだからと言って、私たちが沖縄戦での犠牲者の家族や友人、巻き込まれた人々の痛みを何にも感じないのは、やはりおかしいです。同じ日本人、同じ人間として感じるのが当然だと思います。

  

 今の日本には憲法9条が在って、戦力は無い、軍隊は無い、筈です。でも今やアフリカや中東にまで出かけて行って、他国の軍隊と一緒に行動しています。国際的には、自衛隊は軍隊です。そんな状態になってしまっています。かつてアメリカがベトナム戦争をしている時に、アメリカから自衛隊をベトナムに派遣してくれと秘密の要請が在ったとの事ですが、当時の田中角栄総理は、憲法9条を盾に断っているそうです。田中総理がその後ロッキード事件などに巻き込まれて逮捕されたのも、彼が「虎の尾」を踏んだからだという話も在ります。韓国はベトナムに派兵しました。田中総理は、はっきり日本の立場をさせましたが、今の政治家たちはどう思っているのでしょうか。しっかりと日本の平和、世界の平和を守る事が、戦闘を行う事では無く、それを避ける事へと努力して欲しいです。今はトランプさんの虎の威を借りている状況では、戦争に巻き込まれる危険性は非常に高いです。自衛隊員、家族も悩んでいる人が多いと思います。

 

 今、痛みや悲しみの中に居る人々は、昔よりも複雑で見えにくくなっています。大きな戦争は今は未だ日本には在りませんが、政治や経済や様々な事で、経済戦争と言われるのでしょうか、或は自然災害に依って、人間同士の関係の陰に置かれている人々、この様な方々の痛みも覚えなければならないと思います。ですがこれが中々難しいです。就職超氷河期に正社員になれなかった人たちは、その後も中々正社員に成れず、非正規社員として差別された苦しい生活を強いられて居ますし、引きこもりの方々、高齢者の方々、シングルマザー、いろんな意味での障碍者の方々、それに学校でのいじめ、そんな中で苦しんでいる生徒たち、この頃は部落差別が非常に見えない形で行われている様ですし、段々、いろんな事が見えなくされています。昔無かったことは、スマホでイジメるなど表面には出難い問題が在ります。問題を一つに絞って、「これ!」と言う事が中々出来ません。

 

  でも自分が知り得た限りでの悲しみ痛みの中にいる方々の事を覚える事は、ぜひ必要です。これはイエスが私たちに教えて下さった事です。どの律法が大事かと尋ねられた時に、神を大事にする事、隣人を大事にする事だと答えました。彼自身、ガリラヤの地に行きました。ガリラヤは辺境の地、異邦人のガリラヤとか呼ばれて差別されていましたが、繁栄に与る者と差別された極貧の中で生きてる人々が居ました。そこで虐げられた人々の姿を見て、腸ハラワタが千切れる思いになったと聖書に書かれています。新共同訳では「深く憐れまれた」となっています。「断腸の思い」という言葉があります。ガ~ンと体全体、また腹に響いたのです。

 

更に、「私は仕えられるためではなく、仕える為に来た」とも言われました。極貧の人々、病人、罪人と言われた人たちに仕える為だと言われます。その様な人々に仕える為には、パンもお金も持って行くな、と言われました。相手の人が殆ど何も持たない状況なら、こちらも何も持たないで行くしかないのです。そうでなければ、その様な人々に仕える事は出来ないからです。イエスの厳しい言葉ですが、裏返すと、ガリラヤの人々の非常に厳しい状況が伺えます。そこへ弟子たちを派遣するのですから、弟子たちも厳しい覚悟が必要だったのです。弱く小さい人々に仕えて下さったのが、私たちの主イエス・キリストです。平和の為に様々な方々の痛み苦しみ、悲しみを覚えて、イエスが慰めて下さる様に、励まして下さる様に、二度とこのような事が起こらない様に導いて下さい、と私たちが祈る様にと、私たちが導かれ励まされ、背中を押されていると信じます。沖縄の戦いが過激で在った。それならばその様な事が二度と起こらない様に、今もその苦しみを担い続けている人々の悲しみ痛みを和らげて下さいと私たちが祈るのは当然の事だと思います。それはイエスから与えられた、私たちがなすべき使命ではないでしょうか。その事を今朝は覚えます。    

主イエス・キリストに依る平和が早く実現します様に。アーメン