「イエスはまことのぶどうの木」     2020年3月8日

 

ヨハネ15:1~5    招きの詞 Ⅱコリント9:9~13

 

 

 

 皆さま、お早うございます。ウイルスの感染が落ち着かない中で、よく来て下さいました。感謝申し上げます。自分が出来る事を心掛けながら生きていくしかない気がします。臨時休校など子ども達も困惑していると思います。シンポジウムという言葉をご存知と思います。この言葉の元は「スン・ポシオン」というギリシア語で、「一緒にブドウ酒を飲む」という意味です。2500年ほど前の、古代ギリシア時代に、哲学者のソクラテスたちが、毎晩の様に一緒に集まって飲んでいました。それを「饗宴」という題でプラトンがその様子を書いています。一緒に飲んではあれこれ議論したのです。昨日も飲んで、今日はきついので、何とか楽に飲める方法はないものか、などと勝手な言葉も出て来ます。それがシンポジウムという言葉になったのです。2500年前頃にも既にブドウ酒は沢山作られていたのです。

 

 

 

 ブドウの木は何と今から五千年前から、つまり紀元前三千年頃から、コーカサスやカスピ海沿岸などで栽培されていて、それがメソポタミヤや古代エジプトに伝わって、ワインが珍重されていました。もう一つは干しブドウが作られていました。保存食です。コーカサスから東方の中国に伝わり、それが日本に伝わった様です。鎌倉時代の初期(紀元1200年少し前)から今の山梨県、甲斐の国の勝沼辺りに栽培され始めたようです。俳人芭蕉も、「勝沼や 馬子もぶどうを 食ひながら」という句を残しています。旧約聖書でブドウが最初に出て来るのは、よく知られた個所です。イスラエルと名乗ったヤコブの時代に、カナンの地に大飢饉が起こり(紀元前15世紀頃)、皆がエジプトに逃れます。末息子のヨセフがエジプトで夢占いで頭角を現し、宰相にまで登ります。創世記40章からその話が出て来ます。ファラオの給仕長が首になった時に、ブドウの木が現れる夢を見て、それをヨセフが解いて、その通りになる話が最初だと思います。

 

 

 

 その後、モーセに率いられてカナンに移動し、紀元前10世紀頃カナンの地にイスラエル王国を作り始めました。エジプトに行く話、出エジプトの話が本当かどうかの正確な資料はないそうですが、全くの作り事でもない感じだそうです。旧約に誰かをブドウの木に譬える話は出て来ないと思います。先週イエスが自分の事を「良い羊飼い」に譬えた話をしました。この譬えも旧約には無いと思います。今朝の「わたしはまことのブドウの木、わたしの父は農夫である」という譬えも旧約には無いと思います。イエスの例えは非常にユニークだと思えます。「一粒の麦」の譬えもそうです。神を「農夫」と譬えていますが、岩波版などは「栽培者」と訳し、英吾でも「庭師 gardener」とか、「ブドウの木の手入れ人 vinedresser[と訳したものも在ります。

 

 

 

 私たちがイエスにつながっており、イエスも私たちにつながっておれば、豊かに実を結ぶとあります。のぞみの週報の表紙の絵は私が書いたもので、たくさんブドウの実が生っています。私はこれまで、自分が豊かな実で在る様に錯覚していました。しかしちゃんと読めば、私たちはブドウの枝なのです。実を結ぶための枝なのです。しかしこれまでは、イエスにつながっておれば自分が豊かに生るように思っていました。しかし私たちは「枝」で別なのです。豊かに収穫する話では、ルカに或る農夫が大豊作で、蔵を作り直すほどで、これから何年も心配なく生きれると思う話が12章に在ります。するとイエスが「愚かな者よ。今夜、お前の命は取り上げられる」と言います。私たちにもショックな言葉です。そして、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ」とイエスは言います。では神の前に豊かになるためにはどうしたら良いのか、ルカ12:29から先の話ですが、「ただ神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国を下さる。」とイエスは言います。

 

 

 

 神の前に豊かになる為に、神の国を求めれば日用の糧はすべて与えられるとなっています。「神の国を求める」を山浦先生は、「どうぞ、神さまのお取り仕切りに加えて下さりませと、ただそればかりをひたすら願い続けろ!」と訳しています。神の国を神の御取り仕切りと訳しています。神の国をはるか彼方の天のどこかに求めるのではなくて、この世でも神が私たちを治めて下さる様に求める事だと、私も思います。更にイエスは、「自分の持ち物を売り払って施しなさい」と言います。神の前に豊かになるとは、普通の意味で「豊かになる」事とは全く反対の事の様に思えます。私たちには簡単には出来ない事です。神に前の豊かさは、物やお金をたくさん持つ自分の豊かさではないのです。私たちがイエスにつながっていて、イエスが私たちにつながっていることから豊かに実を結ぶ事なのです。私たちはブドウの実ではなく、ブドウの木の枝なのです。その枝を通って神の命が流れて行って実がなるのです。ですから、持っている物を施しなさいという事になるのでしょう。神の命が私を通って流れるのです。

 

 

 

 実を結ぶと、人々がその実を食べて、喜び満たされ楽しみます。人が生かされる事になるのです。私たちがブドウの木の枝であるとは、この事なのです。ここに真の意味が在るのです。でも私たちは「出来ません。私にそんな力は在りません。そんな信仰は在りません」と言い訳をして終います。しかし、この物語は其処が終わりではないのです。「わたしの父は農夫である。栽培人、世話をする人」だとイエスは続けています。イエスというブドウの木から枝である私たちにしっかり命が流れる様に、父なる神が世話をして下さると言います。この言葉を私は読み飛ばしていました。私たちは父なる神に世話をして頂きながら、実を生らせるのです。ここに私たちの希望が在ります。私たちは命の通り道であり、その通り道を父なる神が世話をして下さる、私が実でなくても、ここに私の命と希望が在ります。

 

 

 

 私たち自身が豊かになる、その方向ではないのです。方向を変えなさいと言われているのです。これまでは「悔い改め」と言われていましたが、悪い事をしないように悔い改めるのではなく、私たちの、本当の未来に向かって、希望に向かって、方向を変える事です。つまり、神の前で豊かになる、その方向に向かう事、弱く小さくされている人々の豊かさに向かう事で在り。さらに、イエスが居られる所に向かう事でも在ります。私たちはブドウの枝なのですが、枝を含めて全体がブドウの木です。私たちが目指す所もぶどうの木、イエスが居られる所です。イエスから命の流れを頂きながら、イエスの下へと向かう様に導かれています。イエスはまことのブドウの木、父なる神は農夫である。アーメン 感謝