「この岩の上に教会を建てる」        2018年7月1日

 

  マタイ16:15~20  招きの詞マタイ7:24~29

 

 

 

 皆さま、お早うございます。一週間、お元気だったでしょうか。先ほどは急に奥村家の方々が教会に来れなくなったというメールが入ったという事ですが、何か大きな事でなければと祈ります。どうぞ覚えて下さい。この梅雨は東京の方は上がったそうですが、こちらは去年とか一昨年の事を思いますと、何が起こるかまだ不安な気持ちにもなります。再びそんな事にならないようにと願っています。「この岩の上に教会を建てる」という言葉は皆さん、よくご存知だと思います。「この岩」はペトロの事だと思われています。元の言葉を正確に見ますと、ペトロは男性ですから、男性の冠詞ですが、「岩」という単語はギリシア語では女性名詞なので、「この岩の上に」は女性冠詞が付いています。ですから直接には使徒ペトロを指してはいないのです。この事を指摘されたのは今は神学部長の金丸英子先生です。

 

 

 

 ところで、イエスは「この岩の上に教会を建てる」と言われていますが、イエスの時代に教会が在ったのでしょうか。もしイエスが常々「教会」という言葉を使われていたなら、マルコにもルカにも出て来ると思います。教会という言葉は、福音書ではこの箇所とマタイの16章の2か所だけなのです。初代教会が段々形成されるのですが、その基になったのはエルサレムに居た十二弟子たち、ペトロ、イエスの弟のヤコブたちです。そこからリーダー役がペトロで、それがカトリック教会に繋がっている、ペトロの代わりが法王で、彼を頂点として階級世界が広がっています。イエスの時代は「会堂」に人々が集まっていました。ですからイエスの時代に教会は無かったと思われます。その言葉がイエスが語られた様に書かれていますが、ここはやはりマタイ福音書を書いたマタイの事を考えなければならないと思います。マタイ福音書がいつ頃書かれたかは、中々難しいそうですが、紀元5年頃とする意見が主です。マルコはもう少し古くて65~70年に書かれたとされています。イエスは33年頃死んだとされています。それから30~35年でマルコが福音書を書いた事になります。その前にはパウロがテサロニケの信徒たちを初め各地の信徒に手紙を書いています。パウロの手紙が有るのにわざわざマルコは福音書を書いたのです。詳しくは語れませんが、マタイが福音書を書いた頃には初代の教会が形成され始めています。そんな中でローマ皇帝、例えばネロ、の迫害が起こっていました。「クオバディス」というのを聞かれた事がお有りと思います。「主よ、何処へ」です。イエスが亡くなってからのローマの社会を描いたものです。ペトロがローマで宣教していくのですが、迫害がひどいので、仕方なく撤退して、ローマから出て逃げている最中に、ローマに向かって行かれるイエスに出会って、「主よ、何処へ?」クオバディス ドミネ」と尋ねるのです。この話は何と1895年にポーランドで書かれた小説なのです。とにかくペトロは独自の活躍をしていたのでしょう。

 

 

 

 ですから「この岩の上に教会を建てる」はペトロの上にではないのですが、ローマカトリック教会はイエスの弟子ペトロの上に建て、それを正当に受けついだ教会だと主張しています。でも、その流れにルターがそれはおかしいとプロテストした事、イエスの権威を直接に受けて行くべきで、法王を通してではない、だから聖書もラテン語のウルガタ訳聖書だけが正しい聖書ではなく、直接私たちが聖書に触れる様にドイツ語訳聖書を作りました。普通の人はラテン語など知らないから、直接に聖書を通してイエスに触れる、その為にはドイツ語聖書が必要だとここでもプロテストしたのです。私たちは日本語に訳されていますが、訳し方がいろいろ有り、これが一番だというのは難しいです。幾つかの訳を較べるのも良いかも知れません。少し話がずれました。イエスが何の上に教会を建てると言われたのかの問題です。私たちのこの教会は何かの上に立っているというイメージでしょか。それともマタイ18:20に出て来る様に、「わたしの名によって二人又は三人が集まる所には私も居る」と言われたその言葉、イエスが居て下さる其処に教会が出来るというイメージではないでしょうか。

 

 

 

 イエスが此処に居られるというイメージは、この教会・伝道所にイエスが常駐されていて、其処に皆が集まるというのではなくて、皆様方をこの教会に連れて来られる、そのイエスを囲んで、そういうイエスと共にを考えたい。ですから、イエスが連れて来られる皆様方が大事なのです。ペトロとか伝統とかいうより、皆さんを此処に連れて来て下さるイエスを大事にする、それは来て下さった皆様方お一人お一人は大事、という事に他なりません。ですけれども、私たちと共に居て下さるイエスと言いながら、イエスを私たちの方に引っ張って来て、私たちが大事だと言いましても、それはやはりおかしくなるのではないでしょうか。私たち中心主義、或はイエスから離れた教会中心主義、教会が大きくなり栄える、この事に一生懸命になる。この方向で教会を考えやすくなります。教会に来なさい、毎週来なさい、教会にイエスが居られるのでしょうか。私たちがイエスと共に居る、という事は、イエスが私たちと共に居られる、という主語を間違えてはいけないのです。イエスが私たちと共に居て下さるのです。

 

 

 そうしますと、イエスを中心にしたこの集いは、此処に居る私たちだけの事なのでしょうか。決してそうではない。私たちの我、ガが破られてイエスが主で在る、そうなのですが、この仲間だけが教会なのか。イエスが共に居て下さるのは、此処でもありますが、他にも、私たちが知らない所にもイエスは居て下さる。東北にも居て下さり、私たちの近くで私たちが気が付かない所に居られる。ですから私たちの眼差しは常に研ぎ澄まされ、どこか破られなければならないです。難しい事を申しましたが、それがイエスが言われた最も大事な掟の事なのです。第一は力を尽くして神を愛しなさい。第二もこれと同じで自分自身の様にあなたの隣り人を愛しなさい。自分が破られないと、解けないと隣り人が見えて来ません。自分の事しか見えない。貴方の隣り人を愛しなさい、自分自身の様に。この教え、言葉が響く所に教会が成り立っていると思います。隣人を自分自身の様に愛しなさいと言われるその言葉の響きの内に、、イエスの聖霊が貴方の隣人を愛しなさいと言われる、その響き、その言葉、そこに教会が在るのだと思います。私たちはこのイエスの言葉の響きの中に包まれているのです。ですから私たちがイエス、イエスというのではなくて、私たちが何処に目を向けるのか、目を向けるようにと励まされ導かれるのか。イエスが教会を建てると言われる時に、何かの上、というより、イエスが「あなた自身の様に、貴方の隣人を愛しなさい」と言われるその言葉の響きの只中に教会が導かれている、そしてこの言葉の響きの中に私たちの希望や平安が在る、と言っていて下さる。 私たちを隣人として受けて下さるイエス・キリスト