「私はぶどうの木、私の父は農夫である」 

                           2018年5月13日

 

 

ヨハネ15:1~5  招きの詞ルカ13:6~9

 

 

 

 皆さま、お早うございます。梶原さん、本当に有り難うございました。(今朝、梶原敬介兄が信仰の証をされて、のぞみ伝道所に転入して下さいました)感謝して、勿体ない事としてお受けしたいと思います。それから今朝はハオさんとハイさん(ベトナムの方で、福岡女学院大学で実習を兼ねて来ておられる)が礼拝に出席されて、これから「のぞみ国際キリスト教会」と呼びましょうか。ハオさん、ハイさん、今朝はぶどうの木(週報の表紙の絵を指して)の話をします。今まで聖書ではイエスを羊飼いで私たちは羊、そして99匹の群れから外れた一匹の羊を探して下さるイエスというイメージで語っていると思います。牛や羊のイメージは創世記で最初の子供たちのカインとアベルの献げもので、神はカインの畑からのものよりアベルの肥えた羊を喜ばれるので、カインは妬んでアベルを殺します。またノアの箱舟の話はご存知ですね。その箱舟には生き物をすべて二つずつ入れますが、植物は集めて食料にしなさいと、保存を言われません。イサクの子供のエサウとヤコブの話も、イサクは狩りをするエサウを愛する話が在ります。

  

 イエスが「私はぶどうの木、私の父は農夫である」と言われたのは、そんな旧約の神の好みとは違う譬えです。イエスご自身をぶどうの木に譬える話はマタイ、マルコ、ルカには出て来ません。先ほどのルカの園丁の話では、主人がイチジクの木に実が生らないので切ってしまえと言うのに、園丁が肥料をやってみますから、一年待って下さいという話です。このヨハネの方は「わたしはぶどうの木、私の父は農夫である」と言われて、「私につながっていなさい」と言われます。私を離れては何も出来ないよと言われたのです。実が生らない枝は切り落とされて火に投げ入れられてしまうよとの言葉は少し福音に相応しくない言葉の様に思われます。一つにはキリスト教の歴史が問題です。キリスト教はずっと迫害を受けて来ました。大体どの宗教もその傾向が在りますが、キリストの福音をユダヤ教の人々が先ず迫害しました。その後パウロが迫害者から迫害される側になりました。1世紀末頃にはローマ帝国も迫害する様になります。初代教会が受けた迫害の事は皆さまもご存知と思います。

 

 紀元85年頃ローマ帝国のドミティアヌス皇帝が、「自分は主にして神である」と言い出したのです。そしてキリスト教を激しく弾圧します。だからぶどうの木から離れた枝は火に投げ込まれますよとキリスト者に伝えたのです。ヨハネ福音書は大体100年頃、1世紀末に書かれたと言われています。弾圧の下にあるキリスト者への励ましのメッセージを伝えているのです。その頃に教会の基礎が出来ました。そして迫害にも拘わらず教会は成長して世界3大宗教の一つにまでなりました。ローマ帝国もキリスト教を国教としました。カトリック教会やギリシャ正教などが発達しました。皆さんはローマ法王の名前で一番多いのは何かご存知ですか。今の法王はフランシスコです。今まで一番人気はヨハネです。ヨハネと名乗った法王は24人います。次はベネディクトで、16人、グレゴリウスは6人、パウロも6人ですから、ヨハネは断トツです。それは教会の基礎の様に「わたしはまことのぶどうの木、私の父は農夫である」と教会を形成する事を大事にしたからだとも解釈出来ます。

  

 ヨハネ福音書は他の福音書と違う所がたくさん在ります。今日はたまたまですが、先週もヨハネ15章からの話をしていますし、梶原さんも一番惹かれるヨハネ15章を用いて話をさせて頂いているのも、お導きだと思います。更に今日は「母の日」ですよね。梶原さんも48年前の母の日に洗礼を受けられたとの事ですし、本当に主に導かれていると思います。ず~っと一緒でなくても良いのです。男の子にはこんなこともよく有るのでしょうか。私の息子は46,7になるのですが、大学には行けませんでした。その代わり小学校の頃はよく遊んでいました。釣りにも連れて行きましたが、油山が近いので、友達と山芋を掘って来る事もありました。その為の長い鉄棒を買ってやりました。大学も行けないで、途中あれこれ在りました。小さな会社に入っても会社が潰れたり、私に似て気が短いので、上司から辞めろと言われて「はい、辞めます」とさっさと辞めていました。そんな中、アルバイトでお金を貯めて、中学時代の友人と2人で、ヒッチハイクの世界1週旅行をしました。1年かかって痩せて帰って来ました。その後バイオ関係の知識や技術を覚えて、今は何とかバイオの下支えの仕事をしています。

 

個人的な話をしてすみません。ぶどうの木と枝の話で、「私につながっていなさい」という言葉の響きは、迫害期のキリスト者を守る、教会を守る、その為には「ぶどうの木に繋がっていなさい」という言葉が必要だったのです。迫害を受けた出来事の一番最初は勿論、イエス・キリストです。そのイエス・キリストが自分に付いて来る人々が迫害される事が分からない筈がありません。ガリラヤだけでなく広く、悩む人々、苦しんでいる人々、病んでいる人々を遠くまで訪ねて行かれたのですから、今迫害されている人々の事が分かれらない筈がありません。迫害されている人々と共に居るという決意ではないでしょうか。「わたしがブドウの木だから、枝をちゃんと伸ばして育てて行くよ。」という状況にして下さる。「私があなた方に繋がっている。だからあなた方も私に繋がっていなさい。そして実を結ぶ様になりなさい。」と言って下さる。ここです。「私があなた方に繋がっている」とはっきり言って下さいます。私たちの状態がどんなで在ってもです。ここがヨハネ福音書が読まれる所以ではないでしょうか。私たちの努力を求めて居られる様ですけれども、「私があなた方に繋がっているから、だからあなた方も私に繋がって実を結びなさい」と言われるのです。これは決して逆にはなりません。ブドウの木が枝を伸ばすように、私が枝を伸ばすというイエスの福音のメッセージをここから受けて、多くの法王が「ヨハネ」と名乗って来た、ヨハネの様で在りたいとなったと思います。「私はブドウの木で、私が枝を伸ばしているのだから、私の枝として繋がって居なさい。」とメッセージを受けます。感謝して受けたいと願います。  アーメン