「おびただしい病人をいやしても」 2020年2月2日

 

 マタイ4:23~25    招きの詞マタイ5:1~12

 

 

 

 皆さま、お早うございます。マタイの山上の教えはその記事に先立つ記事との関連に気が付きました。いろんな病気や苦しみに悩む者など、あらゆる病人をいやされました。ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側(巻末聖書地図6参照)から、大勢の群衆が来てイエスに従い、おびただしい人数の病人を癒された後です。そして山に登られて、この群衆を前に、話を始めた時の事です。「心の貧しい人々は、幸いである」とイエスは言われた。その間に「イエスは口を開き」と在ります。話をする時は当然、口を開きます。私の恩師の猪城博之先生は、「イエスの口から、勿体ないもの、嬉しいものが伝わって来たのだと理解されていました。

 

 

 

 私はイエスが群衆を見られた時に受けたショックが在ったからだと思います。マタイ9章の最後に、群衆が弱り果て、打ちひしがれているのを見て、『深く憐れまれた』」と在ります。山上の教えの場面はこの場面と同じではないかと思うのです。この「深く憐れむ」を新共同訳聖書の前の「共同訳」では「可哀そうに思い」と訳してます。ギャロット先生は「深く憐れみ」、岩波版の佐藤研先生は「腸(ハラワタ)の千切れる思いに駆られた」、本田神父は「民衆を見て、腸(ハラワタ)を突きうごかされた」、田川建三先生は「憐れんだ」、気仙沼の山浦先生は「はらわたの千切れるほどに気の毒に思い」と訳しています。群衆の姿を見て、イエスはかなりショックを受けたと理解する事が出来ます。そんな思いになって、一瞬息が詰まる、そこから思いを静めて話始めた様子が「口を開き」という表現になったと思います。皆さまは如何でしょうか。それ程に、イエスの目の前に居る民衆は生きる希望を全く失っていた状態だと思われます。ガリラヤの貧しい人々は途方に暮れて、絶望していたのです。

 

 

 

 この当時、ガリラヤ地方の領主はヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスでした。その上にはローマ帝国が在ります。また、神殿祭司たちと律法学者たちが、指導者として存在し、更には、徴税人が居て、通行税その他を取り立てていましたので、ガリラヤの民衆は何重にも支配されていました。支配者たちとの格差は今とは比較にならないでしょう。この人々を見られて断腸の思いになりましたが、イエスはこの時、この人々を助けてくれと神頼みをしませんでした。それがその後のイエスの生き方、十字架へとつながります。この「心の貧しい人々は、幸いである」は一つの訳の仕方です。私はこの訳には長く疑問を感じて来ました。目の前の打ちひしがれ絶望の中に居る人々に向かって「心の貧しい人々は、幸いである」などと他人事みたいな言葉をイエスが言うとは私は思えないのです。皆さまにもその場面を想像して頂きたいです。

 

 

 

 そこで今朝は、この部分のいろんな日本語訳を用意しました。どうぞプリントをご覧ください。先ずは1文語訳です。〔幸福さいわいなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。〕これを口語訳も新共同訳も今度の聖書協会共同訳も継承しています。2共同訳 (講談社学術文庫)〔ただ、神により頼む人々は、幸いだ。天の国はその人たちのものだから。〕(その他の日本語訳は、別刷りのプリントをご参照ください。)山浦先生の訳は「ガリラヤのイエシュー」という福音書の訳は〔頼りなく、望みなく、心細い人は幸せだ。神様の懐(ふところ)にシッカリと抱かれるのはその人たちだ。〕です。「心の貧しい人々」は山浦先生の「頼りなく、望みなく、心細い人」と言う訳が一番近いと感じています。(別刷りプリント裏面参照)

 

 

 

 もう一つ、此処で私が思うポイントは、イエスが、或る意味で「神頼み」をされていない事です。「神よ、この人々を助けて下さい」とは祈られていません。イエス自身が、神の子として、自分がこの人々の救いを実現しなければ、誰がこの人々を助けるのかという思いになられたのだと思います。この人たちが生きる希望を得るのは自分の使命だ、自分はその為に来たのだと覚悟を決められたのではないか。ここからイエスは自分の道を歩き始めた、所謂、公生涯が始まったと思います。このガリラヤの民に圧し掛かる圧力に対して、イエスは闘われました。神の名を騙る神殿宗教、律法と。また徴税人たちとは、友だちになりました。イエス自身が人々の希望への道を切り拓いたと思います。この人々の生きる道筋を自分が切り拓くという覚悟では無かったでしょうか。その闘いに天の力を受けて進んだのだと信じます。「困った時の神頼み」を、神の子自身がするでしょうか。

 

 

 

このイエスが民衆に出会ったのと同じ様な場面に、中村哲先生も出会い、また、中村先生もそこで「神頼み」をしませんでした。弱り果てている人々、食べる物もなく寒さに触れている子どもたちを見て、神に助けを求める祈りよりも、これは自分が何とかしなければならないと覚悟を決めたのではないか。水が要ると分かり、井戸を1600本掘り、それでも足りないので25キロ以上の用水路を掘りました。中村先生が書いた「天、共にあり」という本が在ります。中村先生は、西南中でキリスト教に出会い、イエスの山上の教えに心を打たれ、文化的なショックを受けたそうです。それを「天、共にあり」と感じたそうです。その心で、アフガンにも行き、アフガンの人たちがどうかして生きる道を見つけ出す覚悟をされたのです。砂漠を農地に変えました。「天、共にあり」とは、天の力を受けながら、自分が道を切り拓く事です。その意味での神を頼む事だったと思います。先生の死は本当に残念です。

 

 

 

 中村先生は、人が生きる道筋を切り拓く。病気は後で治すから、先ず生きる事が大事と言いました。イエスは、神の名を騙りながら、弱く小さくされた人々に手を差し伸べない神殿宗教者や律法学者と闘いました。神の御心が実現するように、祈ったに違いありませんが、決して神頼みの道を選びませんでした。群衆の姿を父なる神に訴える祈りをしたでしょう。しかし、この人々の生きる道、希望を自分が切り拓かなければと覚悟したのです。自分の十字架の死が、終わりではない事を示すために、神に問い、神と取っ組み合いをしたのが、あの十字架上の叫びだと信じます。私たちの状況は決して優しくはないし、絶望が蔓延っているとも思います。でも、イエスが最後まで、希望を求めて、神と取っ組み合いをして、私たちも生きる事への希望を導きました。この出来事に希望が在ります。少なくともこののぞみの群れの中で、お互いに励まし合いながら、生き抜く様にと励まし導いて居られます。その励ましと希望をこの聖書から受けています。聖書は生きているイエスを私たちに力強く証をしています。聖書自体が生きている神の書物です。感謝 アーメン

 

 

 

 

(参考)マタイによる福音書 第5章3節の訳

 

1 文語訳 

 

幸福さいわいなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。

 

 

 

2 共同訳 (講談社学術文庫) 1981年

 

 ただ、神により頼む人々は、幸いだ。

 

天の国はその人たちのものだから。

 

 

 

3 ギャロット先生訳(角川文庫)

 

 心の飢えを感じている人は幸せだ。 そういう人こそ天国に入れる。

 

 

 

4 フランシスコ会訳

 

 自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人のものだから。

 

 

 

5 田川建三訳

 

 幸い、霊にて貧しい者。天の国はその者たちのものである。

 

 

 

6 本田哲郎神父訳

 

 心底貧しい者たちは、神からの力がある。

 

天の国はその人たちのものである。

 

 

 

7 佐藤研訳 (岩波版)

 

 幸いだ、乞食の心を持つ者たち、

 

  (直訳「霊において乞食である者たち」と註を付けている)

 

 天の王国は、その彼らのものであるから。            

 

 

 

8 GOOD NEWS BIBLE

 

   Happy are those who know they are spiritually poor;

 

   The Kingdom of heaven belongs to them!

 

 

 

9  The New King James Version

 

   Blessed are the poor in spirit,

 For theirs is the kingdom od heaven.