「ヨブの友だち」     2018年10月7日

 

 マルコ15:33~39  招きの詞ヨブ記14:18~22

 

 

 

 皆さま、お早うございます。台風が2週続きました、被害は無かったでしょうか。被害の大きさ、復興が遅い、そんな中で不安な日々を過ごして居られる方々も多いと思います。先週は中風の人の友だち4人の人の振る舞いをイエスが見て、その中風の人は「あなたの罪は赦された」と言われます。罪を赦す事では後、律法学者たちとの問題となりますが、この友だちは助けて貰う人、中風の人の側に立ちました。私たちも困っている人の側に立ちたいと思いつつも中々立てないでいます。いま祈祷会でヨブ記を読んでいますが、ヨブの場合、その友人たちはヨブが苦しんでいるのを聞いてはるばる慰めにやって来ました。しかしヨブの姿のあまりにも悲惨な姿に、ヨブを説得して神に許しを乞うようにと話しかけます。ここでは常識的な善人には神は良くして下さり、罪人には悪を以て報いられる、所謂、勧善懲悪説を語ります。高い目線からの様ですが、元はヨブを何とかしてやりたいという気持ちでしょう。でも結局、友人たちはヨブの側には立ちませんでした。

 

 

 

 助ける側に、どうしたらヨブが助かるかを語りました。神の目線とも言えるかもしれません。神は正しい者には恵みを与えて下さるのだから、ヨブよ、お前も正しく立て!と叱咤するのです。その様な神の理解でした。この姿に、これまでのキリスト教会、或は宗教界も同じことをして来たのではないでしょうか。人々に悔い改めを迫りました。高い目線で伝道しました。「この世のまだ救われていない人々へ」伝道する、そんな信仰を持っていました。のぞみの信仰告白の中でも「伝道する事を神から委託されている」と告白しています。どんな気持ち、姿勢で伝道するのか。それにしても、私たちに伝道はどうなっているのでしょうか。殆どは私のせいですが、わざわざ伝道しなくても、という感じになっているとも思えます。チラシ配りもしませんし、伝道集会もまったくしていません。どうしてこうなっているのか、それを少し考えてみました。別にこれから方針を変えて、伝道!というためではありません。私自身が責められなければなりません。

 

 

 

 なぜ、私たちは伝道を特に考えていないのか。一つには、私たちに余力が無いからです。年を取って、自分が動くだけでも精一杯なのです。日々の生活の様々な事で、立ち往生している様な者だからです。伝道する、或は他の人の事に向かう力がないのです。これは確かでしょう。二番目には、いま私たちが教会に集っているのは、私たちがイエス・キリストを選んだのではなくて、イエスが私たちを選んで下さったからだ、という信仰がありそうです。世は円15章16節にあります。ですから伝道して、教会に誘っても教会に定着されない方々が多いです。しばらくは続いても長続きしません。実はイエスがその方を選んで居られないのかもしれません。イエスのせいにしてしまう感じですが、イエスが選んだ、私たちは選ばれた、という事は、他の人達もイエスが選んで下さる筈だと思い易いです。3番目は、ひょっとしてという事で、確信は在りませんが、まだ救われていないという人々と私たちクリスチャンとは本質的に、或は神の前で、大きな違いは無い、という気持ちが何処かに有るような気がします。

 

 

 

 普通の人々とクリスチャンは何も違はない、だからわざわざ教会に招かなくても良いのではないか、と思っていることです。私自身には確かにあります。私たちはキリストに信頼して、キリストにお任せして生きる事で、希望を与えられ、喜びを与えられる、そんな生き方を教えられています。町の人々と違うのは、私たちはイエスから生き方を教えられ、それに従おうとしている群れなのです。お互いに助け合おうとしていますが、イエスに教えて頂く生き方は、一つは、神を大事にしなさい、という事で、日曜日には教会に来る事になっています。それは誰にでも有るような気がします。年に1回、日本の人々は神社やお寺参りをします。それから2番目には「隣り人を大事にしなさい」という生き方です。こんな事をイエスから教えられています。すでに世の人々も夫々に、生きる価値とか、生きるための道筋とかを持っています。それはイエスが教えられた、神を大事にし、隣人を大事にする事とあまり違いません。

 

 

 

 この事を象徴的に表している一つが、アイヘンバーグのこの絵です。これは掛ける為に梶原さんが作って下さったものです。教会が炊き出しをしているのに、多くの人々が並んでいる、その列の中にイエスが並んでいる。教会の外に居られます。昨夜もおにぎりの会は夜回りをして下さったようですが、この様に、教会と何も関係が無いような人々の只中にイエスが居られる絵です。教会の外にイエスが居られる。ここに並んでいる人々は、本質的に他の人々と何も違わないです。こっちが偉いとかない、ただイエスだけを象徴的に描いていますが、普通の意味ではイエスも他の人々と違わないのです。この絵が本当に正しいのかどうかは、真理かどうかは、別です。でも、私はこの絵に非常に惹かれます。今までイエスは教会の中に居られると思っていましたので、本当に衝撃的な絵です。イエス理解です。こうして見ますと、教会の中の人々と外にいる人々とは、救われているとか、いないとかではなくて、本質的に違わない、という気持ちなります。これが正しいかどうかはわかりません。

 

 

 

 でも、イエス・キリストを理解するのに、これまでの教会の枠組みを取り払って、より深くイエスの愛、人々を大事にして下さる気持ちが伝わる様に思われます。私はこの様なイエス・キリスト理解に大きく導かれ、支えられています。ヨブはこの列に並ぶでしょうか。この人はヨブでしょうか。私は並んでいると思います。します。失礼ですが、この人々は或る意味で、挫折した人々です。イエスも挫折した一人です。不運の人々かも知れません。ヨブも挫折しました。「どうしてですか?」と繰り返し神に尋ねます。ヨブの友人たちはこの列に並んでいないということ構図になると思います。どこか大きな状況が立ちはだかって、立ち往生している多くの人々とヨブは、そしてイエスも同じだと思います。友人たちは自分たちは神に祝福された者たちだと思っています。ヨブには何の責任も無いのに、この有様です。本人には何の責任も無いのに津波に遭い大水害、地震に遭っています。

 

 

 イエスも十字架に架けられましたが、イエス自身には何の責任も有りませんでした。それなのに「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。ローマの百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と語ったのは、マルコの信仰告白なのです。このイエスの叫びこそ、教会の外にひっそりと並んでいる人々の叫びで在り、それを受けて、神の子の叫びなのだとマルコは私たちに伝えています。ヨブの真の友人として、イエスが叫んで居られます。「神様、どうして私をお見捨てになったのですか」と神の子として、イエス・キリストが叫ばれました。アーメン