「モノコック・ボディ」        2020年3月22日

 

マルコ2:23~28     招きの詞 ヨハネ4:31^36

 

 

 

 皆さま、お早うございます。今朝の説教題は何の事かお分かりにならない方も居られると思います。申し訳ございませんが、順を追ってお話致しますので、お許しください。今は教会歴ではレントで、主イエスの受難を覚える時です。そのイエスが受けてられる受難を、現代の状況で考え直す事が主な動機です。皆さまは五重塔をご存知ですね。奈良の興福寺のものが一番古いと思います。最初の塔は今から千三百年頃前に建てられ、そして室町時代に再建されたのが現在の五重塔です。それでも千年程は経っています。この様な五重塔が過去の日本の人々の信仰を表しているのでしょうが、その信仰、また世界観を現代の私たちがそのまま受容する事は無いと思います。五重塔は当時の世界観、信仰を表しました。この塔はお釈迦様の遺骨を納める為に造られたものです。

 

 

 

 五重の五は、仏教で世界を構成する5つの要素を現しています。地、水、火、風、空の5つです。古代ギリシアでも世界を構成する元素・原子〔これ以上は分解できないものの意味・アトム〕を考えました。興福寺の塔は50mの高さだそうです。当時の人々にはこの世界観を受け入れていたという事です。しかし今の私たちはこの様な世界観ではないと思います。この五重塔の中は大きな柱です。心柱、これを何と読むのでしょうか。普通の家屋も大黒柱が在りました。しかし、現代では、それがない家屋も在って、大黒柱の事が分からない世代も出て来ていると思います。この会堂にも大きな柱は在りません。天井も軽く作っていますし、この壁が大事なのです。現代でも柱が不可欠の建造物も在ります。船がその代表です。船の柱は横になっていて、船底に在ります。竜骨keelと呼ばれるものです。(竜骨の図)10万トンの巨大な空母にも在ります。しかし日本の昔の船、和船にはこの竜骨が在りませんでした。だから外洋を航海出来ませんでした。この様な柱というか骨、私たちの背骨は大事です。

 

 

 

 

 

 (龍骨の図)      (シャーシーの図)

 

 

 

 

 

 

 

 今のモノコックボディは一番身近には車です。昔の車はこんな車でした。シャーシーと呼ばれる梯子の様なものを横にして、それにスプリングやタイヤを付け、エンジンやハンドル、座席を載せて、その上からボディをかぶせていたのです。(シャーシーの図)ですから基本的にトラックも乗用車もベースは同じでした。現在でもトラックはこの構造です。でも今日、皆さんが乗って居られる乗用車には、このシャーシー・骨組みが在りません。では、骨・柱が無いのに、どうやって車の重さや地面からの反動を支えるのでしょうか。モノコックとは、mono(一つ)とフランス語のcoque(貝殻)との合成語です。貝殻には柱も骨もありません。それで水圧に耐えています。これでもっと分かり易い形が「卵」です。卵は関取でも縦には割れないと言われます。卵には柱も骨も在りませんが、強いです。(この頃の卵はどうでしょうか?)その形をしているのがモノコックボディなのです。

 

 

 

 私たちが子どもの頃から見かけた卵型はトンネルです。大きな山の麓を突き抜けるので、物凄い重さに耐えているのです。柱も背骨も在りません。〔トンネルの図〕卵の形だから、山の重さを支える事が出来る訳です。今の車も前から見ると、卵型になるのが理想的なのです。必ずしも卵型には見えませんが、軽く作るにはそれが理想なのです。(車の前からの図)今の乗用車は昔のシャーシー型の骨組みは在りません。無くてもその形で耐えているのです。元々は飛行機を軽く丈夫に作るために開発された技術です。(戦後、最初にモノコックボディの車は、戦前の中島飛行機が戦後、富士重工となって(今のスバルの前身)作ったスバル360という軽自動車だったと、後で西村兄に教わりました)それと信仰とが同の様に関わるのかという問題になると思いますが、私はこれからの教会の在り方として、モノコックボディという事をヒントに考えたいと思っています。

 

 

 

  (トンネルの断面図)   (車の前からの図)

 

 

 

 

 

 

 

 キリスト教の前身のユダヤ教では律法が大きな柱でした。ヤハウエーの神に従う事は律法に従う事でした。律法は大事な柱でした。律法主義に陥る前にはちゃんと役目が在ったのです。イスラエルの民がエジプトを出て、荒れ野を40年も放浪する間に民族としてのまとまりは崩れそうになりました。エジプトに帰ろうという者たちが現れたり、金の子牛を拝む者たちが現れたりします。一つにまとまる事は簡単には出来ません。モーセの言葉に背く者たちも出て来ます。そこで十戒が与えられました。カナンを目指して一つにまとまって旅をするには必要なものでした。何とかカナンに着いてイスラエル民族としての生活が始まります。時間の経過と共に、階級社会が出来て、格差が分離していきます。ユダヤ教の指導者の上流階級が出来、下層階級が出来ます。上流階級は富や権利を貪りました。貧しい寡婦や農夫から搾りたてました。指導者たちか肥えて行きます。

 

 

 

 この様な状態にイザヤを初め、多くの預言者たちが警告を発しました。貧しい人々大事にする、旅の者たちを大事にするように語りました。しかし、聞かれませんでした。そこで神は罰として、バビロニアに依る占領と捕囚が起こります。そんな大事件も起こりました。バビロニアの次にペルシャが興って、クロス王の政策でイスラエルの民は帰って来ます。戻ってきた預言者ハガイ、ゼカリアの指導によって主に従うイスラエルの建設を模索します。そして神殿と律法の二本の柱を中心に立てます。神殿再建築は途中で邪魔が入ったりしますが、後から帰還したネヘミヤなどによりイスラエル国の再興がなります。それも時間が経つと同じ様に指導者たちの欲が膨らみ腐敗して行きます。また平和が続くと緊張感が無くなりますから、律法がないがしろにされるようになり、律法学者たちは逆に守らせようとして、律法を細かく規定していきます。そして律法を守れと言ってきたのですが、それが人々のための律法ではなくて、律法のための律法、学者たちの為の律法になっていったのです。

 

 

 

 更に、律法を守れない人々を罪人呼ばわりするようになります。神殿にお参りして、罪の赦しのための献げものをするようにと迫ります。その献げものは祭司たちの懐を潤すわけです。形式化し搾取の手段となっていくのです。人々を励ます真の希望にはならなかった。その様な状況の中に、イエスが現れたと言って良いかもしれません。非常に大雑把なユダヤの流れを話しましたが、罪人だと弾かれていた人々の只中でイエスがその人々と交流し食事をしたりします。律法の中でも「安息日」は割と分かりやすい事でした。金曜日の夕方から土曜日の朝までです。この間は労働をしてはいけないのです。安息日を守る事が、律法のシンボルみたいになっていたのでしょう。それをイエスの弟子たちが守らないと律法学者たちが難癖をつけます。麦の穂を摘むのを労働として、禁じていたわけです。空腹だから麦の穂を摘んでかじる事は別に律法違反ではないわけです。でも律法学者たちには攻撃の種にするのです。それに対して、イエスは安息日は人のために在るので、人が安息日の為に在るのではないと反撃します。それがファリサイ人たちには、神の律法を軽んじていると見たわけです。

 

 

 

 律法を軽んじ侮辱しているのは、神への犯行であり、神を軽んじ疎んじていると決めつけて、イエスを何とか 始末しようと諮るのです。イスラエル民族の柱である律法をないがしろにして、主なる神に従わない、当にイエスを罪人の指導者と見て、何とか抹殺したいのです。イスラエルの柱である律法を守らない怪しからん奴なのです。だから殺せとなります。イエスの十字架については、様々な意見が在りますが、現象を見ると、今述べた様な事になると思います。ユダヤ教の柱、神殿と律法を軽んじ、神を冒涜する者、反逆者イエスだったのです。世界の状況が変わって行く。ギリシアが栄え、ローマが栄え、地中海世界の政治や経済の状況が変わって行きます。その中で、豊かさを自分のものにする権力や支配力がものを言う時代になる。その犠牲者になって支配される弱く小さくされた人々の側に立って、闘ったのがイエスです。その中心問題はイスラエルの柱の神殿と律法を無視した事だと決めつけられたのです。

 

 

 

 それからキリスト教が起って来るのですが、キリスト教もまた二千年の歴史の中で、体制を支える柱を立てました。カトリックの教会堂の中には柱がたくさん並んで立っていて、その間に椅子が置いて在ります。ゴシック建築と言って、聳え立つ形です。それを支える柱が在ります。神学的な意味での柱が在りました。法王の神理解は絶対で、神父たちだけが聖書を読めた。ラテン語訳の聖書です。他の言語に訳してはいけませんでした。神父たちの特権で、彼らは豊かな生活をするようになりました。教会堂のために、神父たちの豪華な服装や食事のためにお金が必要でした。そこへルターが改革を起こします。法王だけが正しいのではなく、神父たちだけが聖書を読めるのではなく、誰でも自分の言葉で聖書を読むべきだし、誰でも直接に神に祈る事が出来るとプロテスタント(反攻者)が興ります。ルターはカトリック教会の柱を壊しました。でもプロテスタントの教会も歴史の中で、教会中心主義になりました。礼拝に出席しなさい、献金をしなさいと教会にしか、イエス・キリストは居ないかの様に語り、そう思わせて来ました。教会に来る人々を増やす、会堂を大きく立派にする。その時の教会の柱は何でしょうか。それが問題になります。単純化しますと、人が多い事、経済力が在る事、が現代の教会の柱になっているのではないかと私は思います。

 

 

 

 この様な現代の教会の柱に対して、私たちはどの様に考えたら良いのでしょうか。人数や経済力や会堂の外観の様な柱に頼るのではない教会像はどの様に描けば良いのでしょうか。先程読んで頂いた聖書には、「私の食べものとは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げる事である」(ヨハネ4:34)とイエスが言っています。これを私たちはどこか忘れている様に思われます。この「神の御心を行う」とはどんな事なのでしょうか。それが、「教会」で礼拝しましょう、祈祷会をしましょう、楽しく集いましょうとなっている気がします。教会暦で今はレントですが、イエスは今、何を苦しんでおられるのでしょうか。今のイエスの姿は、皆さまご存知のこのアイヘンバーグの絵が語っていると思います。イエス・キリストは教会が行う炊き出しを待つ労働者たち、或はホームレスの人々の群れの中で、イエスも並んでいます。イエスが教会の外に居るのです。(アイヘンバーグの絵)この事を教会として、どの様に受け止めて行ったら良いのか。教会の柱は「イエス・キリスト」です。そのイエスが、教会の柱が、教会の外に居るというこのイメージに対して、私たちはどうしたら良いのでしょうか。

 

 

 

 

 

  (アイヘンバーグの絵)

 

 

 

 

 

 

 

 先ほどからの私の言葉では、教会に柱が無い、つまり、モノコックボディなのです。卵型の形で、柱は外に居られる、その状況で教会として、「神の御心を行う」事を、どうしたら行うことが出来るのでしょうか。それを考えたいのです。今の教会の姿をモノコックボディと譬える事はできます。でも、具体的にどうすることなのか。中々難しいですね。教会の柱たるイエスが、教会の外に居る、一体どうしたら、教会はモノコックボディになるのでしょうか。イエスは「神の御心を行う」と言われながら、良く小さくされた人々に仕えて下さっています。その人々の傍にいる、その人々に寄り添っているその姿を、私たちもまた受けて行く事なのではないでしょうか。外の状況に対して、イエスがいまどの様な試練に寄り添って居られるか、それを私たちは考えなければならない、その事につながる事だと思います。

 

 

 

 今日の話のまとめとして申しますと、こうして集まって礼拝をする事はとても大事です。でもこの礼拝が済んだら、のぞみ教会の役割は終わったのでしょうか。いや、其処から始まるのが、柱の無い、柱が外に在る教会の務めではないかと思います。先週は、3.11の被災者の方々を覚えよう、深い所で自問自答しながら闘っている被災者の方々の気持ちを受けて祈ろう、と申しました。私たちが誰のために祈るのか、という事です。勿論、お互いを覚えて祈る事は大事です。週報にも祈りの対象者を挙げています。でも、私たちは、何人のために祈っているでしょうか。礼拝に出席される方の人数を数えるなら、何人のために私たちは祈っているか、考えても良いのではないでしょうか。日本でも大きいと言われる教会は、どれ位の人々のために祈っているでしょうか。私たちは、祈りの対象の人数で言うならば、百人を超える礼拝の教会に負けない事が出来ます。

 

 

 

 

 その意味で私たちは、誰のために、どんな人たちの為に、何人のために祈っているか、それがアイヘンバーグが描いた、教会の柱のイエス・キリストが教会の外にいる教会の営みとして大事な、「祈りの膨らみ」を私たちが覚えて祈るかという事です。卵型の様に、祈りの膨らみ、ここに新しい年度の私たちの歩み、さらにこの5月に教会組織1周年を迎えるこののぞみ教会の営みがあるのではないでしょうか。今、イエスが受けておられる受難をイエスの受難として覚えたいと願っています。私たちの祈りにどれ位、イエスに依る膨らみが在るのか、今イエスに導かれて祈る事が大事だと信じます。柱の無い、モノコックボディの教会という言葉よりも、神の御心を行うというイエスのお働きを覚える、つまり、私たちの祈りが、イエス・キリストによってどれ位、膨らみを持っているか、イエス・キリストの祈りに導かれているか、その事をしっかりと覚えて歩みたいと願います。イエス・キリストは教会だけの専売品では在りません。教会の外でも、弱く小さくされた人々に今も寄り添って居られる主イエス・キリストが、信仰の柱なのです。主イエス・キリスト 祈りをお導き下さい。アーメン