十字架の言葉は愚かに見えるけど」   2020年年8月2日

 

第一コリント1:18~31  招きの詞 ヨハネ15:11~17

 

 

 

 皆さま、お早うございます。今年も豪雨の被害が在り、遅い梅雨明けでしたが、明けた途端に連日猛暑で、大変ですね。コロナも増え続けていて、外出を控えねばなりませんが、感染者が多い若者たちはどんな意識なのでしょうか。今度、松井さんが洗礼を受ける決心をされて、感謝です。芳野さん共々、まだ聖書の言葉に馴染んで居られないと思います。先週もそのつもりで、「イエスのゆえに、私達は絶えず死にさらされている。それはイエスの命がこの体に現れるため」という第二コリント書の聖書の箇所を選びましたが、今朝も、「十字架」についてお話したいと思います。お二人には「十字架」という事がよくお分かりでないかもしれなと思うからです。「十字架の言葉」という言い方も分かる様で、分かり難いと思います。長く教会生活をして来た者たちも、分かった様な気になって、す~っと読み飛ばし易い言葉です。殆どの聖書学者が、ここを文字通り「十字架の言葉」と訳しています。青野先生もそうです。

 

 

 

 十字架が話をするわけではありません。「イエスの言葉」なら、イエスが語る言葉だと考えますが、ここで「十字架の言葉」という表現が必要なのでしょうか。コリントはアテネに近いギリシアの大都会です。西洋の古典であるギリシア哲学のギリシアです。そこに住むギリシア人は知性とか知恵を重んじました。ですから、言葉 ロゴスが大事なのです。例えば、ソクラテスは、イエスと同じ様に、自分では一文字も書いていません。全部ソクラテスの名によって、プラトンが書いたものです。しかしソクラテスは、知者として知られています。彼は「無知の知」、自分は知らない事がまだ在ると知っていると言いました。言葉、ロゴスはギリシア人には、それこそ無くてはならない言葉なのです。そこで、福音をギリシア人に伝えようとしたパウロは、言葉ロゴスや知性ソフィアとか賢い人ソフィストとかの表現をしていると思います。日本語の哲学は、フィロソフィーと言いますが、フィロスは友人たちとの愛を表し、ソフィーは知性ですから、元は「知性を愛する学問」の意味です。それ程に,知、知性、知恵を大事に考えていたギリシアの人たちです。

 

 

 

 そこで今朝は、第一コリントのこの箇所を、意味を噛み砕いて、意訳の文章を作ってみました。今朝の週報に挟んでいますので、ご覧下さい。(別紙参照)私が読みますので、目で後を追って下さい。(音読)如何でしょうか。この箇所のポイントは、「十字架という言葉は、神の力である」という事でしょう。「力」はデュナミスdynamis と言います。これはノーベル賞のノーベルが発明したダイナマイトの語源です。ダイナマイトは文明社会の発展に大いに貢献しました。しかし同時に、戦争の悲惨さも何倍にもなりました。ダイナマイトは「人間の力」だという他在りません。では、神の力とは、どんな力なのでしょうか。私があれこれ説明するよりも、神の力に依って生きた人々を思います。中村哲先生がそうでしょう。日本人で私が思い浮かべるもう一人は、足尾銅山事件で、激しい被害に遭った貧しい山奥の村人たちと、死ぬまで戦った田中正造氏もそうでしょう。彼のことは、今朝はこれ以上述べませんが、彼の言葉を二つ紹介します。

 

 

 

 一つは、「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」です。もう一つは、「デンキ開けて、世見セケン 暗夜となりぬ」です。この言葉によれば、現代は、真の文明と言えるのでしょうか。鋭い洞察力ですし、心打たれる言葉です。神の力によって生きた方をもう一人紹介します。1931年から1936年まで長崎に居た、コルベ神父です。彼はポーランド人で、1936年に帰国命令を受けて帰りますが、待ち受けていたのは、ナチスでした。コルベ神父も捕えられてアウシュビッツの収容所に入れられます。1941年7月末に、神父と同じ棟の囚人が脱走します。1名脱走すれば、10名を殺すとナチスは言って居ましたので、10名が無作為に呼び出されます。その内の一人が、「妻に会いたい、子供に会いたい」と泣き叫んだのです。それを見たコルベ神父は、自分がその人の身代わりになる事を申しでます。そしてコルベ神父が処刑されるのですが、その処刑方法が途轍もなく残酷です。座ることも出来ない狭い牢に押し込めて、食事も水も与えないで餓死させるのです。しかし、コルベ神父は2週間経っても死なないので、薬を注射して殺します。コルベ神父が身代わりとなった方は、確か90才過ぎまで生存されたと思います。神父のことを1日として忘れることはなかったでしょう。コルベ神父は聖母マリアを大事にして、聖母の布教のつもりで長崎に来たようで、雑誌「聖母の騎士」を発行し、また、「聖母の騎士学園」は今も在る小さな学園です。

 

 

 

私達は、今紹介した方々と同じ様には生きることは出来ません。しかし、「神の力」とは何でしょうか。その証明に成れば幸いですが、ヨハネ11:25を紹介します。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。』わたしを信じる者は、死んでも生きる。』」これが神の力だと信じます。十字架は死の象徴シンボルの様ですが、実は復活のシンボルだと思います。カトリックの十字架にはイエスが磔にされたままになっています。しかし、プロテスタントの十字架は、ここに(礼拝室正面)にご覧になられるように、イエスは十字架の上には居られません。復活されたからです。このイエスの復活のシンボルとしてこその十字架だと信じます。

 

 

 

 私たち凡人が神の力によって生きるとは、どんなに希望が無いように思えても、先がもう無いように思えても、神を呪いたい、呪うような気持になっても、(イエスご自身、十字架の上で、エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ、我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですかと神に叫ばれた)、イエスの復活の命が私たちに注がれる、というイエスの十字架の信仰に生きる事です。「たとい死んでも生きる」。十字架は復活の命のシンボルです。私たちは主イエスの復活の命に預かる希望を頂いています。この希望の中で、つまり「神の力」の中で、中村哲先生も、田中正造氏も、コルベ神父も生き抜かれたのだと信じます。更に、今この歴史の片隅で、この世の暗闇の中で、絶望しか見えない様な現代社会の中で、命の怯えしか感じないで細々と生きて居られる小さくされた方々もそうです。その神の力を凡人たる私たちにも注いで下さいます。主イエス・キリスト 感謝 アーメン