「霊で祈り、理性でも祈ろう」  2020年年5月3日

Ⅰコリント14:13~19  招きの詞ルカ20:45~4

 

 皆さま、お早うございます。この困難な状況の中、皆様方、如何お過ごしでしょか。主イエスのお守りをお祈り申し上げます。しかし、私たちのその祈りは、どんな祈りでなければならないのでしょうか。ただ、「お守り下さい!」と声を大にして、熱狂的に祈る事ではないと思います。今朝はパウロのコリント第一から学びたいと思います。ご存知の通り、使徒言行録14:1以下に在ります様に、パウロはテサロニケでユダヤ人から迫害されて、アテネに逃れます。18章では更にコリントへ行きます。そこに1年6か月滞在しました。(11節)その滞在の初め頃にテサロニケの信徒への手紙を書きました。紀元50年頃とされています。これがパウロの手紙の最初のものです。ですからパウロはコリントの人々をよく知っていました。そのコリントの信徒への第一の手紙は、その後、パウロがエフェソに滞在していた頃(紀元54年頃)に書いたとされています。エフェソの場所は聖書の巻末地図8か9をご覧下さい。ギリシアに面したエーゲ海の港町です。

 

 その手紙を書いた目的は、コリント教会の信徒たちが分裂しそうになっていた事に対して、一つにまとまる様にと勧告するためでした。第コリント1:10以下で次の様に書いています。「さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあるとクロエの家の人たちから知らされました。」コリント教会に有力なアポロというリーダー格の人が居たのでしょう。信徒たちの或る者たちはこのアポロをリーダーにグループを作ろうとし、また他の人たちは、前居たパウロが良いと言い、他にもキリストに付くと言う人々も居て、分裂しそうになったのだと思われます。それを止めて、一つになりなさいと勧めるのがこの手紙の第一の目的だったのです。

 青野先生によると、このコリント教会に「霊的熱狂主義者たち」が居たそうです。多分、この人たちが異言を語ったのでしょう。(14:1以下)パウロは、異言を語られても、言葉の意味が分からなければ、空に向かって語るのと同じだと言います。この異言を語る人々をパウロは頭ごなしに、ダメだ!とは言いません。12節に、「あなたがたも、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。」と一応は認めて、持ち上げる様な言い方をします。しかし、次の13節で、「だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。」そして15節で、「霊で祈り、理性でも祈りなさい。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝にアーメンと言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。」そうしてパウロ自身は「あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを神に感謝する」(18節)と言っておいて、「しかし、わたしは他の人たちを教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方を取ります。」と、理性を重んずる様な事を書きます。

 

 こうして見ますと、「理性で祈り、理性で語る」という事は、「お互いに理解できる、お互いを理解することを大事にする」という事だと思われます。この「霊」で祈るという「霊」はプネウマという言葉ですが、聖書にはよく出て来ますし、幾つかの日本語に訳されます。マタイ5章の山上の教えの「心の貧しい者」の「心の」がこのプネウマです。元々、「息」及び「呼吸」を意味して、生命、また風を意味します。天地創造で神が人間を創造された時、土で作った人間の形に神が「息」を吹き込んで、生きた人間となります。「理性」はヌースで、知性とも訳されます。「知恵」はソフィアという別の単語です。この「ヌース」は「理解する心」に近いと思います。考え方、態度でも在りますし、その結果の思想、意見も意味します。今朝は、この辺りの事はこれ以上触れないで、話をシンプルにしたいと思います。パウロに取っては、お互いに理解する事が大事ですが、それは、「教会を造り上げるため」なのです。その為に、「お互いを理解し合って、一つになって固く結び合う事」が不可欠なのです。

 

 私はこのパウロの言葉から、霊的熱狂者になり、異言を語るのではなくて、イエス・キリストの福音をこの世に宣べ伝える為に、理性で祈り、理性で語りたいと願う者です。と同時にそれは、イエス・キリストがガリラヤの極貧の人々を理解し、そこに足を運んで、福音を伝えたように、私たちも、イエスの福音を受けて、現代のガリラヤを理解し、其処に住んで居る人々にイエスの福音を伝えるべく、その人々のために理性で祈るべきだと思います。ここに「理性で祈る」という事の、私たちにとっての大事なポイントが在ると信じます。パウロには「教会を造り上げる」事は大きな目標でした。私たちのぞみ教会の者にとっても、これは大きな課題です。その為に昨年、教会組織をして連盟に加盟したのです。しかし、教会の中でしか通用しない、いわば現代の「異言」を一万語るよりも、現代に通用するように、理性で祈り、理性で賛美し、理性で五つの言葉を語りたいと願っています。

 

 

 イエス・キリストの福音の言葉が、現代に通じる言葉となるために、私たちは現代のガリラヤに住む人々を覚えて、理性で祈ろうではありませんか。教会の外の陰の世界に住み苦しんでいる人々のために、霊で祈り、理性で祈りましょう。教会の外の現代のガリラヤの世界を理解し、認識し、そこに苦しむ人々のために、イエスがその人々を覚えて、執り成して下さる様にとの願いの祈りを、霊でも祈り、理性でも祈りましょう。現代のガリラヤは、世界中に広がり、国内でも、地方でも、子供たちも高齢者も、その中に否応なく引きずり込まれています。イエス・キリストは、私達を理解して下さり、今も祈っていて下さるのですから、私たちもまた、現代のガリラヤで苦しむ人々を覚えて、イエス・キリストが覚えて下さる様に、霊でも祈り、理性でも祈りましょう。