「イエスは良い羊飼い」            2020年3月1日

 

ヨハネ10:11~18    招きの詞 ルカ15:1~7

 

 

 

 皆さま、お早うございます。思い掛けない人数の礼拝で、8名は久しぶりですね。人数よりも、お一人おひとりの事を祈ります。特に寺井姉妹がご高齢で、また田中聞多さんご夫妻も、今朝は用心のためお休みです。守られます様に祈ります。イエスと羊、羊の群れとの結びつきは、馴染み深い気がします。一匹の羊の話はよく知られています。旧約聖書もそうかなと思って調べましたら、旧約には羊の話はあまり出て来ません。ダビデ王は少年の頃、羊の番をしていて、石投げ機を上手に操った様で、後年のゴリアテとの戦いは良く知られています。ユダヤの南の方で、地形が割と険しい所なのでしょうか。羊の放し飼いで、時々羊が危険な所へ迷い出たり、また、狼なども多かったのでしょうか。

 

 

 

 ダビデは羊のために命を棄てる等とは言っていません。大勢のペリシテ人を殺して王になりましたが、羊とのつながりは少年の頃のイメージしか在りません。旧約には羊の群れの話は余り出て来ません。旧約262頁、民数記27:17です。15節「モーセは主に言った。主よ、すべての肉なる者に霊を与えられる主よ、どうかこの共同体を指揮する人を任命し、彼らを率いて彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませまた連れ戻す者として、主の共同体を飼う者のいない羊の群れの様にしないで下さい」と在ります。これはモーセがカナンに入る時、年を取って(40年も荒野を彷徨いましたし)後継者を決めます。それがヨシュアです。その新しいヨシュアの下でイスラエルの民が、飼う者が居ない羊の群れの様にならない様にして下さいと言う場面です。そこからイスラエルの民のカナンの地での長い歴史が始まります。

 

 

 

 これに対して、イエスは自分の事を「良い羊飼い」と言います。それは、狼や盗人などから、命を懸けて羊を守る者を意味しています。雇われ羊飼いは逃げてしまうからです。「命を懸けて羊の群れを守る」事が良い羊飼いの意味です。「弱い群れのために」という意味で、エゼキエル書を見て下さい。1352頁、34:1以下です。「イスラエルの牧者」とタイトルが在ります。イスラエルはバビロン捕囚など過酷な歴史を辿りますが、6節、「わたしの群れはすべての山、高い丘の上で迷う。またわたしの群れは地の全面に散らされ、誰一人探す者もなく、訪ねる者もない。それゆえ、牧者たちよ、主の言葉を聞け。わたしは生きていると主は言われる。まことにわたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者が居ないためあらゆる獣の餌食になろうとしているのに、牧者たちは群れを探しもしない。」とあって、イスラエルの指導者たち、祭司や律法学者、政治経済の指導者に「牧者たちよ」と警告します。ここの「わたし」とは、主なる神自身の事です。

 

 

 

 「わたしの民は全地に散らされ」という事は、その後のイスラエルの運命、ローマに依ってエルサレムが崩壊した後、国が無くなって、民は全世界に散らされた歴史を予言するかの様です。「弱い群れ」を指導者たちはどうして守ろうとしないのかと主なる神が言っています。羊や弱い群れに対する言葉が、この様に幾らかは在るのですが、イエス自身が自分を良い羊飼いに譬えて、命を棄てる羊飼いの話は旧約には在りません。これはやはり、イエス独自の働きを自覚しての事、或は、その時代のガリラヤ、ユダヤの厳しい状況が想像されます。宗教、政治経済もローマに支配されてユダヤは小さくされて、遂には無くなります。その状況でイエスは「自分は羊のために命を棄てる」と言われた事の重さを感じます。イエスの十字架、なぜイエスは命を棄てたのか、これには「贖罪論」を始め、いろんな説が在ります。イエスの一匹の羊の譬えも旧約には在りませんが、これもイエスのオリジナルの言葉です。一人ひとりが非常に大事だという事です。その為に命を懸けて探すのだと言うのです。弱い羊に譬えられるような弱い私たちをイエスは守ると言います。

 

 

 

 ここで私が問題にしたいのは、命を懸けて守ってもらうだけで良いのか、という事です。守りの中にぬくぬくとしていて良いのか。「ぬくぬく」という言葉が悪いかもしれませんが、守って頂くだけで良いのでしょうか。私たちは、それに対して、どうしたら良いのでしょうか。私たち自身が強くなって自分で戦う様にならねばならないのでしょうか。そう考える事と同時に、私たち自身が弱い羊だと考えたりします。しかし私たちよりも更に弱く小さくされている羊、羊の群れが居る事を、私たちはす~っと通り過ぎているのではないかという事の問題です。その様な事への思いをしっかり持たないし、持とうとしていない、のではないか。イエスがそこに目を留めた様に、私たちは目を留めていない。その事をイエスは何も言われないのですが、その事がイエスから問われていないでしょうか。

 

 

 

私たちよりも弱く小さくされた群れが確かに居るのです。それを私はあまり気にしていない。自分たちの事しか見ていない。でもイエスは、ガリラヤの「貧しい人々・プトーコイ」に象徴される弱く小さな人々を訪ね歩いて行きました。命を其処に注ぎました。中村哲先生はアフが二スタンで、自分たちよりも弱く小さくされている人々を見つけました。そして先生は其処をす~っと通り過ぎなかった。30年以上の時間を懸けて、さらに自分の命を懸けて、様々な事を努力された。初めの頃は、裸足で歩くのでハンセン病が無くならないからと、古タイヤでサンダルを自分たちの診療所で作って配った。履物も無い様な人々のためにサンダルを自分で作ることから始められました。中村先生は決して通り過ぎませんでした。イエスの事をどれ程に思われたか分かりませんが、自分の生き方に何かしら影響を受けられたと思います。「天、共にあり」と感じ、その様に生きた。

 

 

 

私たちも弱く小さくされた群れのために、何かをしなければなりません。中村先生は「議論ではなくて、実行だ」と言いました。私たちに何が出来るか、それは確かに問題です、でも、それ以前に、そこを私たちは、意識しないで通り過ぎていないか、という事の問題です。現在の世界をリードしている国の一つは日本です。その日本が他の強い国と一緒になってこの世界をリードしています。その責任は私個人もしっかり考えなければならないと思います。私たちが過ごしている日常の文明社会の問題。車、スマホその他、当たり前に使っていますが、問題はないのでしょうか。政治もおかしな事になっています。私たちにそれを動かす力は殆ど在りませんが、何も考えないのは問題です。私たちは毎日、何を祈っているのか、イエスから問われていないでしょうか。今日、私が何を祈るか。災害が起こってボランティア活動が伝えられますが、実際日本は悲しい状況です。他者の手助けをした事が在る人は23%、これは世界で142番だそうです。経済力ではどうなのでしょうか。慈善団体に寄付した事が在るのは18%、世界で99位、ボランティア活動に時間を割いた事が在る人は27%、世界で56位です。

 

 

 

私たちの現実は高齢化などで直ぐにこれらに対応できません。そうすべきだと声を大にしては言えません。その資格は私には在りません。でも普段の私たちの関心事、祈る対象、その中身はどうでしょうか。イエスに命を懸けて守れて居ながら、自分はどうなのか。イエスに感謝の気持ちをどの様に表しているか。弱く貧しく小さくされて居る人々のために、どれ程、祈っているでしょうか。今朝はこの問題を皆さんと共に考えたいと願っています。のぞみ教会という群れが、小さい群れで在っても、どの様な志を持っているのか、持っているというより、新しく心に抱くべき事だと、改めて自覚したいです。どんな教会に成るのか、これからの大事な問題です。この群れがイエスを主とする群れとして、それをどれ程自覚して歩むのか、お互いに祈り合い、支え合い、語り合って行きたいと願います。「私は良い羊飼いである。お前たちの命を守る」とイエスが言って下さる中で、その私たちが何を祈っているのか、イエスにどの様に答える事が出来るでしょうか。イエスに全く申し訳ない気持ちです。主イエスの恵みとお導きを自覚して共に歩みましょう。