「第一の掟と私たちの生き方」   2018年11月25日

 

 マタイ22:34~40  招きの詞マルコ12:28~31

 

 

 

 皆さま、お早うございます。秋も終わりですね。昔でしたら紅葉を見にオートバイであちこち出かけていたのですが、今は行けない状況にあります。この頃ブラックフライデーという言葉を耳にされると思います。世界大恐慌が起こった木曜日はブラックサーズデーと呼ばれます。1873年の10月24日にニューヨークの株が大暴落をしました。次はブラックマンデーが在ります。これもニューヨークの株の大暴落で、1987年10月19日の月曜日でした。ブラックと言いますと、暗黒と訳されて良くない事を指すと思われがちですが、ブラックフライデーは全く逆です。感謝祭やクリスマスシーズンを迎えて、消費が拡大して、どこのお店も「黒字」になる事から、そう呼ばれています。今朝は「神を愛する」という掟は守れそうに思いますが、本当に守れるのだろうか難しい事だと思われます。先程同じ内容の個所を読んで頂きましたが、違いがお分りでしょうか。マルコは「第一の掟」は何かと聞きました。マタイは「最も大事な掟」と言い換えています。同じ様な気がしますが、「最も大事」という最上級の意味は元の聖書には在りません。日本語はそう訳されていますが、元はただ「大事な」という言葉です。マルコとマタイは受け取り方が少し違っています。「第一の掟」は一つしかありません。イエスの時代の律法は沢山在り律法学者や専門家が必要になる位でした。

 

 その専門家が「一つだけ」の掟とはどれかと尋ねました。イエスが「心を尽くし、力を尽くして、神を大事にする事」だと言われました。「神を愛する、大事にする」事は出来るのでしょうか。神は無限で見えない方です。何処にでも居られるようで何処に居られるか分かりません。それを日本では何処にも居られる「八百万の神」と言います。聖書は「自然には見えない神」です。見えない方、無限の方を愛する、大事にする事が私たちに出来るのでしょうか。そこをちゃんと考えないといけないと思います。それは今、教会組織に向かう事は私たちに出来るのかという事に通じています。神を愛する事が出来るのか出来ないのか、分かりません。分からないけれども前に向かって進む、教会組織の自立は自由な世界に立つ事です。どんな困難な状況に陥っても、どんな過酷な運命に陥っても自由である、だから生きる事が出来ます。その一人にアウシュビッツで九死に一生を得たフランクルがいます。彼は頑張って生き貫きました。その彼を支えた事が二つあります。

 

  一つは今日お話する事ですが、自分がどんなに追い詰められても、自分にはまだ「一切れのパン」が在る、という事でした。もう一つは奥様を思う事でした。自分を信じて「妻も頑張って生きている」、だから自分が先に死ぬわけにはいかない、という思いでした。これは第二の掟として、来週お話したいと思います。今日は「もう一切れのパン」を考えたいと思います。毎晩、とても薄~いスープしか与えられなくて翌日も強制労働に駆り出されます。フランクルは決して諦めませんでした。それは彼が「自由で」在ったからだと思います。周りの運命に潰されず、自分らしく生きる為に闘いました。朝の点検の時に、彼は見かけを良くするためにガラスの欠片で髭を剃りました。背筋を伸ばして点検を毎日パスします。そんな努力をします。そのきつい時に「もう一切れのパンを残している」という余裕の気持ちを持ち続けました。これはイエスの福音につながる出来事で在ったと思います。フランクルは「命懸けで自由で在ろうとした」と私は思います。これが「自立」につながる事だと思います。生きる事につながる事だと信じます。

 

 この「自由に生きる」という事で、以前にもお話したソ連のソルジェニツインという作家の「イワン・デニソビッチの一日」という小説があります。シベリアの強制収容所に送られて、極寒の中で強制労働をさせられるイワンの話です。イワンたちは生き方を強制されていました。起床から食事、労働は強制された枠の中で生きなければなりません。夜は疲れ果てて寝てしまいがちですが、イワンは其処で、なお自由で在ろうとします。夜中に厳しい監視の目をかい潜って、自分の棟を抜け出して友人の別の棟に忍び込み、友人に会います。今日の労働に出て来れなかった友人と言葉を交わして励ますのです。それは彼が自由で在ろう、友人のために生きる自由を大事にしたからです。だいぶ前に読んだのですが、心に残っています。どんな運命にも負けまいと闘う。先は分かりません。フランクルが戦後書いたのが「夜と霧」という本です。強制収容所の残酷な写真もたくさん在ります。「夜と霧」という題ですが、周りは、先が見えない状況を表しています。霧の中を車で前に進む時、見えないからと光を照らすと、前は真っ白になって全く先が見えなくなります。先が見えない状況を「夜と霧」という言葉で表したと思います。

 

 将来が計算できません。自分の計算ではない別の人間の判断の中でしか生き貫けません。しかし、実際に生き貫きました。でも必ずしも助かるとは限りません。フランクルは幸いに生き貫きました。しかし、生き貫けなかった人もいます。こちらの方が殆どです。その一人がボンヘッファーでした。ヒトラーの暗殺計画に加わったとして逮捕され、連合軍がそこまで来ているという時に処刑されました。彼は脱獄の道を選びませんでした。でもいま、多くの人がボンヘッファーを尊敬し慕っています。人々は感動しています。そんな生き方が在りました。それもボンヘッファーが自分らしく自由に生きよ

 うとしたからです。結果は私たちの手にありません。生きるにしろ死ぬにしろ、自分なりに生き貫こうとした事、自分の信仰を貫こうとした事、自由な自立した生き方の中で、フランクルは生き貫き、ボンヘッファーは残念ながら死にました。しかし両者とも私たちに生きる力を与えてくれます。

 

 私たち個人々々もそうですし、この小さな集いも自由で自立して生きる事を目指したい。周りは「夜と霧」です。その「夜と霧」の状況を私たちなりに生き貫こうではありませんか。フランクルやボンヘッファーからその事を励まされますが、更には、イエスから教えられ、励まされる。それが「神を大事にする」という掟です。私たちに出来るかどうか分かりません。でも「神を大事にして生き貫きなさい」とイエスは言われていると思います。「大事にしなさい」という命令形ではありません。「一緒に生き貫こう!」という感じの響きです。命令されて生きるのではなくて、「一緒に生き貫こう」とイエスは言っておられます。神の掟を一つ選ぶならこれです。神を大事にして生きる事が可能なのか、分かりません。先は「夜と霧」です。でも此処を生きるしかないのだよ、と言われています。これが私たちにイエスが教えておられる生き方です。ご自身もガリラヤで、神殿にも行けない、律法を守る事も出来ない極貧の人々と共に生きる、先が見えない状況に屈しないで生きる、ご自身の運命を最後までガリラヤの人々と生き貫き、闘われました。

 

 その結果があの十字架でしたが、そのイエスの場合に「一切れのパン」は何だったのかと考えました。イエスにパン一切れは在りません。イエスには神に対して最後に叫ぶ、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ぶことが残っていた事と思います。これを父なる神はお受けになり、イエスを復活させられました。その様な世界が在る、行き詰りそうで、なお、神に叫ぶことが出来る。それ故に復活され、再びガリラヤに向かう事が出来た、その出来事全体をマルコやマタイたちが伝えています。フランクルが生き貫いた事に感動し、励まされます。しかしボンヘッファーやイエスは死にましたが、それ故に私たちは感動し励まされます。勇気を与えられ希望を与えられます。「第一の掟」、神を心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして大事にする事、これはイエスご自身の生き方だったと思います。他人事の掟を唯一の掟として教えられたのではありません。先が見えない、私たちの人生はそうです。でも、イエスが共に生きて下さる、励まして下さる、失敗成功ではなく、何に基づいて生きるか、その生き方が第一の掟だと信じます。 

  第一の掟を私たちと共に生きて下さるイエス・キリスト アーメン