「生きている者の神」         

                    2018年10月28日

 

 

ルカ24:1~5     招きの詞マタイ22:29~33

 

 

 

 皆さま、お早うございます。寒くなり来週は11月ですから、もう晩秋ですね。北海道や東北の方ではもう紅葉がきれいなようです。この頃は何か騒然としたこの頃ですね。アメリカは中間選挙が近いです。中間選挙は上院、下院の半分か3分の1の入れ替え選挙です。何か反トランプの有名人にパイプ爆弾が送られたり、ユダヤ人の礼拝所で銃の乱射事件も起きています。日本でも沖縄の三つ選挙が終わり、基地反対の住民の意思が示されました。県知事選では安倍政権は菅官房長官や国会議員まで応援に行きましたが、豊見城市でも、反基地の意思が示されて、三番目の那覇市長選挙ではもう、雰囲気が反与党とはっきりいていたので、官邸は身替りの速さに驚きですが、誰一人応援には行きませんでした。もう沖縄の保守勢力を見捨ててしまいました。だから選挙で那覇市長が誰になろうとも、基地は沖縄に置いて、全部負担させて、沖縄を切って捨てる姿勢がはっきりしたと思われます。もう沖縄の保守勢力を切って捨てました。トランプ政権は中距離の核兵器条約から離脱する意思を示しています。北朝鮮には核兵器の全廃を迫っていますが、自分たちは核兵器を使えるように、先制攻撃にも核を使う事を否定していません。ですから、強い者たちの勝手さ、身替りの速さがこの世界を歪めて行っています。憲法改悪という言い方も有りますが、憲法改定で、自衛隊が外国でも戦える軍隊にしたいのです。今自衛隊は法的には軍隊では有りません。他の国の軍隊と行動していますが、国内法では軍隊では有りません。靖国の問題があります。死んだ者たちを美化する事に対して、主イエスが言われる神は、死んだ者の神ではなく、生きている者の神だという事をどの様に理解したら良いのか、考えたいのです。

 

 

 

 「生きている者」の「者」は複数です。死んでいる者たちの神ではなく、生きている者たちの神であるという事です。つまり生きている人は、人々として生きていますし、人々の中で生きています。こののぞみも小さな群れです。群れの中で人は生きています。この群れとして生きる時に、お互いに協調して平和に生きる事が出来るのか、自分

 の権利の主張から争いの世界になるのか。複数の世界ではどうしても、こんな問題が起こります。僅かな価値観の違いとか、相手より少しでも多く、或は有利に、と人々は動きます。感じの「私」という字は、「禾」は稲を現して、「この稲は私の物だ」という意味だそうです。ですから、その昔から「これは俺の物」という発想が群れの中で起っていた訳です。先週金曜日に「部落問題に取り組むキリスト者連絡会議・九州」、略して「部キ連九州」の研修会が聖公会で有りました。聖公会でどんな取り組みをしているかの話がありましや。35年程前に聖公会の総会で、当時の国際基督教大学の学長中川氏の差別発言があったのです。この問題の具体的な事は今朝は触れませんが、部落差別の問題で、差別は何なのかと言えば、差別は犠牲を強いる事です。つまり、ガリラヤの問題と同じだと私は思います。部落差別の根本の問題は、同胞から棄てられる「棄民」という問題です。これは聖書でも「異邦人のガリラヤ」と言われています。ユダヤの民からガリラヤの人々を外して、つまり棄てているのです。

 

 

 

 最近ふとテレビで見た事からですが、太平洋戦争が終わった73年も経つのですが、まだ終わっていない問題、一つは慰安婦問題ですが、他にもあります。B、C級戦犯の問題です。韓国の人がこのB,C級戦犯になりました。129人で、その内死刑が14人でした。韓国の青年だった人たちが、南方の戦場での捕虜の監視役でした。その青年たちが戦争に負けたおかげで戦犯になりました。捕虜の虐待の問題でした。皆さんは「戦場に掛ける橋」という映画をご存知だと思います。地形が鉄道を敷くにはすごく難しい所です。映画では英軍がかなり上手くやったように描かれましたが、実際は、枕木一本に一人が死んだと言われています。そこで捕虜を使いました。その捕虜の監視役が韓国の青年たちの仕事でした。そこで虐待が在ったとして戦犯になりました。その人たちが戦後しばらくして釈放されましたが、日本人の場合は釈放後、軍人恩給がつきました。でもこの韓国の青年には何も補償がない。その時は韓国人、戦争で使う時は日本人です。もう一つは「棄民」の問題です。韓国でも彼らは、日本に協力した者として「棄民」扱いをされました。ですから韓国に住めません。日本に戻ったんですが、僅かな支援金しかなく、苦しい生活を強いられました。未だにその問題は残っています。超党派の国会議員でこの問題に解決をと動く人たちもいますが、政府は動きません。未だ3人の人が生きています。その二人はもう動けないそうです。一人は94才で動ける人が、李鶴来イハンネさんです。彼は初め死刑の判決を受け、南方から巣鴨刑務所に移されて、しばらくして釈放されました。生きた証の名誉を認めてほしいと日本政府の謝罪と補償を求めています。

 

 

 

 この事に対して私たちは何も出来ません。私たちの声は殆ど届きません。では何もしないのか。一つはこの問題を知ること、苦境に生きている人々、不条理な生き方を強いられている人々を知ること、それは祈りに通じると思います。イエスもガリラヤの人々の只中に生きられましたが、その姿に通じるのが、このアイヘンバーグの絵だと思います。この時、イエスは何をされていると思いますか。ただ教会の炊き出しを待っているだけでしょうか。イエスはこの人たちの為に祈っていると思います。この人たちに希望を、喜びをと祈っている様に思えます。そのイエスを主としている私たちが祈らないという事があるでしょうか。私たちもイエスの祈りに合わせて祈る。今日のバザーで少し外に向けての姿勢を取るようにと話されています。私は非常に有り難い事だと思っています。バザーが外に向けてという事だけではなくて、イエスが教会の外に立って、その弱くされている人々の只中に居ながら、その人たちの為に祈っておられる、私たちもその姿に倣って、そとの人たちの為に祈る事ができれば良いなと思います。私が語る宣教に於いてもその事を志したいです。李鶴来さんのためにも祈る。私たちがどんな祈りをしているか、イエスに問われているのではないでしょうか。

 

 

 騒々しい状況など、苦しい状況が有りますが、イエスがその只中に身を置いて下さり、祈って居られるその祈りを受けながら祈る、その事を今、イエスから促されているのではないでしょうか。いま、生きている人々の神とは、苦境に生きている人々、不条理な生き方を強いられている人々の神であり、その人々の只中に身を置いて祈って下さる、私たちの主イエスの御心を少しでも受けて祈りたい、その様にイエスから促されています。生きている人々の主イエス、アーメン