「クリスマスはなぜ、暗く寒い時に?」       

                                       2020年11月22日

 

   マタイ4:14~17(本田神父訳)    

      招きの詞マタイ5:14~16(本田神父訳)

 

 

 

 皆さま、お早うございます。もうクリスマスの話をするようなことになりましたが、今日、飾り付けをしますが、それと今朝は、杉浦れいちゃんが礼拝に来てくれるかなと思いましたので、こんな題にしました。暗い所に光が差したという絵でも見せながらと思ったからです。でも、昨年もそうでしたが、礼拝には来られないそうです。話はそのままにさせて頂きました。クリスマスを皆さま方は、何度も迎えて来られたと思いますが、イエス・キリストが生れた日とされているのですが、そうでは在りません。イエスの誕生日は分かりません。イエスが殺されて、復活したのはイースターですが、こちらは殆ど今、私たちがお祝いする時と重なります。それで後から考えて、生まれた年を想定して、西暦元年にしたのです。でも、実際は、それよりも、3,4年前だったとされています。ですから、クリスマスは誕生日のお祝いではなく、イエスが生れた事を祝う行事です。何故、25日に決めたのかは、大たいお分かりですよね。冬至の夜が一番長い時です。この日からは段々夜が短くなって、温かい春が近づきます。最も暗い時に生まれたけど、その時から明るさが長く暖かくなるからでしょう。なぜ冬至の日が起こるかはご存知ですよね。太陽に対して、地球は23.4°傾いて自転と公転をするからです。そうして季節が生れます。

 

 

 

 二千年前の、あの時、あの所が最も暗い時と場所だったのか疑問に思います。世界の他の場所や時代がもっと暗かったかもしれません。しかし、ユダヤ人にとっては、最も暗い出来事が起こりそうな時代だったのです。パウロの働きなども在って、キリスト教はローマ帝国の国教として、そこから、世界に影響を与え始めるのですが、イエスが亡くなった後、しばらくして、紀元70年には、エルサレムがローマ軍によって陥落して、イスラエルという国が無くなってしまったのです。これは本当に大事件です。例えば、ナチスの迫害によって600万人のユダヤ人が殺されたと言われていますが、国そのものが消えたのです。それから二千年間、イスラエルという国は在りませんでした。イエスが殺された直後に国が滅びてしまったのです。その様に非常事態と申しますか、途轍もない危機的状況に在ったと言えるのです。更に、ガリラヤという場所は深刻だったと言えます。今朝の聖書の箇所では、「ゼブルンの地、とナフタリの地、湖沿いの道。ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ」と在ります。ゼブルンの地とナフタリの地は、巻末地図の4と5をご覧下さい。4の「統一王国時代」の上の方、ギネレト湖の西側に、ナフタリとその下にゼブルンが在ります。ガリラヤ湖は竪琴に似ているので、キネレト湖と呼ばれていました。そして右側の5の南北王国時代では、ゼブルンがガリラヤになっていますね。概ね、この辺りの事を指しています。このナフタリとかゼブルンの地は、山地なのです。ガリラヤ湖の周りは、平地で、よく耕された豊かな畑が在ります。ここを歴史的にそして国際的に見るとどう見えるのか。地図の1、聖書の古代世界をご覧下さい。イスラエルの辺りはカナンです。右の上の方に、アラム・ナハライムが在り、アッシリアが在ります。チグリス川が流れています。アッシリアによって、紀元前722年に北イスラエル王国が滅亡します。紀元前587年には、南ユダ王国が、新バビロニアによって滅びます。そしてバビロン捕囚が起こり、多くのユダヤ人がバビロニアに連れて行かれます。しかし、紀元前531年にペルシャによって新バビロニアが滅亡し、前520年には、エルサレムに第2神殿が建てられて、「ユダヤ教」が成立したとされています。

 

 

 

ですから、ガリラヤ地方は長く異民族に占領されていた地方です。多くの異邦人が定着したので、異邦人のガリラヤと呼ばれていたのです。ペルシャの後には、ギリシアが発展し、その後にローマ帝国が興り始めます。その頃に、イエスの出来事が起こったのです。ギリシアとローマはヨーロッパです。イスラエルとかペルシャはオリエント、東洋なのです。ローマから北部ヨーロッパにキリスト教が広まり、更に、インド洋や大西洋を越えて、南北アメリカに、東洋に、そして極東の小さな島国、日本にまで伝わって来ました。ガリラヤに始まったイエス・キリストの福音は、日本には欧米から伝わって来ましたが、元々は欧米のものではなく、東洋、オリエントのものです。カトリックの影響を欧米は強く受けていますが、イエスの福音は、ガリラヤから生まれた事を、もっとしっかり考えてみたいのです。ヨーロッパのキリスト教ではないのです。異邦人のガリラヤが長い歴史の中で受けてきた試練を軸にした、イエスの登場の意味を受け直したいのです。キリスト教というものと、ガリラヤから始まったイエス・キリストの福音とは、違うのではないかと、この頃思っています。いま、宗教としてのキリスト教から離れて、イエス・キリストの福音を何だったのか、見直そうという事が始まっていると思われます。

 

 

 

私は、先週、めげずに立ちつづけることによって、私たちが生きる事に、未来が開ける話をしました。イエスの福音の出来事に、めげずに立ちつづけることを願っています。ガリラヤの貧しく弱い人々の傍に居られたイエス・キリストの福音、これを、現代のガリラヤと呼ばれるような所や状況に居る人々と共に居て下さるイエス・キリストを、ぜひ、しっかりとお伝えしたいと願います。その事をしっかりと受けて参りたいと願っています。辺境の地と呼ばれ、異邦人のガリラヤと呼ばれた、歴史の波に現れた状況の中にたたずむ人々の傍に先ず、イエスは行かれたのです。そこに大きな光が差し込んだのです。本田神父の訳を見ましょうか。「これは、預言者イザヤをとおして言われたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなた、世俗の民のガリラヤ、くらやみに住む民は大いなる光を見、「死のかげの地に住む者に光が差しこんだ」とあります。本当に暗い闇、死のかげに住む人々に大いなる光が射したのです。現代でも、死のかげの地に追い込まれている人々がたくさん居ると思います。そこに光が差し込んだのです。

 

 

 

「差し込む光」は、いわゆる光線です。光はライトと言いますが、差し込む光線をレイrayと言います。れいちゃんが来てくれたら、れいちゃんはのぞみ教会に差し込む光、光線、レイという事を言いたかったのですが、差し込む光はレイray なのです。死のかげに住む人々に、一筋の光線が差し込んだ、と申したい。暗い闇の片隅に住む人々に、光線がす~っと差し込んだのです。ですから、「もう一度、神の事を見直しなさい」という事が「悔い改めよ」という言葉です。本田神父はそれを、「低みに立って見なおしなさい」と言います。自分が低くなって、差し込む光に照らされる人々の事を思いやりなさい」とイエスは言っているのです。その意味で、天の国はすぐそこに来ているとも言います。クリスマスは夜には光り輝く世界が展開して、キリスト教の行事というよりも、世界の文化と言いますか、イスラム教徒も、イルミネーションの飾り付けをしている様です。教会には行かないけど、クリスマスを楽しむ文化になっています。この現象を喜ぶよりも、死のかげに住んでいる人々に、光が差し込んだことを聖書は、語っているのです。その光線に照らされた世界を、自分自身を低くして、見直しなさいとイエスは語っているのです。自分が高ぶっていては見なおせません。

 

 

 

1年で申しますと、最も暗いのは、冬至の頃ですが、1日で申しますと、一番暗くて寒いのは、朝の4時頃から6時頃です。もう直ぐ日の出です。それなのにその時が一番暗くて寒いのです。夜明け前と言われますね。一番近いのですが、太陽はぐるっと回りますので、一番遠いのです。でも、一番近いのです。天の国はもうそこに来ているのですが、まだ、その光が射して来ない、そんな夜明け前の状況です。その只中で、暗闇に住むガリラヤの人々を訪ね歩いて、励まし希望を、いつくしみ深い神を伝えたイエス・キリストなのです。そして私たちは教会に集められていますが、教会をどの様に考えたら良いのでしょうか。教会のポイントは私たちの交わり、お互いに支え合い励まし合う交わりだと思います。私は元英語の教員でしたので、英語の諺を一つ紹介させて頂きます。Birds of a feather flock together. 「類は類を呼ぶ」と訳されますが、a feather 羽根が一本の鳥たちなのですが、そんな羽根一本の鳥なんて居ませんよね。これは、一本の羽根の様に、みんな同じ羽根を持っている鳥の事です。「羽根が同じ鳥たちは、群れをなす」という意味です。みんな同じ羽根を持っているのです。私たちにとって、一本の羽根は、唯一のイエス・キリストを頭とする事、a feather つまりイエス・キリストを主と仰ぐ、身にまとう鳥たち、この群れがこの教会です。ですから、私たちは共に祈り合い、支え合いながら歩んで参りたいと願います。

 

 

最も暗いという事をもう少し考えますと、最も希望が無い、「孤立無援」という言葉が在りますが、誰の助けも無い、深い孤独、そこが一番暗いのです。その時が一番つらいのだと思います。これは、イエス・キリストはそうだったのです。十字架の上で、そうだったのです。「孤立無援」の状況だったのです。「神様、どうして私は見捨てられたのですか」と叫んだ時、イエスは最も孤独でした。だれも助けに来てくれないのです。その孤立無援の状況を、最も暗い状況を、イエスご自身が担って下さったのです。そのお気持ちで、私たちの傍に来て、「お前も一人なのか」と声を掛けて、傍に依り添って下さる。あの人たちも寂しい、困っているね。そこに手を差し伸べようね、と私を誘って下さる。イエスご自身が、最も深い孤立無援の状況に、めげずに立って下さった、そのイエスがこの群れの「主」です。そこから、喜びの福音がほとばしり出て来ます。主イエスよ、お導き下さい。

 

マタイ福音書5章14節~16節(本田哲郎神父訳)

あなたたちは、世の光である。

山の上にたてられた町は、かくれることができない。

また、人はともし火をともして升の下に置くようなことはせず、燭台(しょくだい)の上に置く。

そうすれば、家の中のすべてのものを照らす。このように、あなたたちの光を、人々の前に輝かせなさい。人々はあなたたちの正当な行いを見て、あなたたちの天の父をたたえるようになるのである。

 

 

マタイ福音書4章14節~17節 (本田哲郎神父訳)

 

 これは、預言者イザヤをとおして言われたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖ぞいの道、ヨルダン川のかなた、世俗の民のガリラヤ、くらやみに住む民は大いなる光を見、死のかげの地に住む者に光が差しこんだ。」(イザヤ8:23b~9:1)そのときから、イエスは、「低みに立って見なおせ。天の国はすぐそこに来ている」と告げ知らせはじめた。