「湧いて来る命と突き破って来る命」 2020年年5月31日

 

ルカ8:49~56   招きの詞 ヨハネ11:38~44

 

 

 

 皆さま、お早うございます。お変わりございませんか。北九州市では、第二波が起きているのか、新しい感染者が出ています。福岡市は今の所、収まっている様ですが、油断は出来ませんね。お互い気をつけましょう。のぞみ教会は来週6月7日から、今までの通常の礼拝にしたいと思っていますが、今週の様子を見なければいけません。今朝のタイトルは芳野さんが洗礼を受ける決心をされた事への感謝と共に、これはどんな出来事なのかを私なりに話をさせて頂こうと思いました。芳野さんのお話を伺っていますと、決心される前に、イエスが芳野さんの前に現れて下さった出来事が在ったとの事です。どうしてなのかは分からないけど、イエスが芳野さんの前に現れて語り掛けて下さったのだと証しを聞かせて頂きました。イエス・キリストが芳野さんの前に現れて下さったとは、どんな出来事なのかをお話したいと願っています。単純化して簡単に言いますと、永遠の命に復活されたイエス・キリストが芳野さんに、その命を注いで下さるという事です。

 

 

 

 そこで少し、命について考えました。皆さんは、「無為」という言葉をご存知だと思います。普通は「無を為す」、つまり何もしないことと受け取られています。しかし、中国の老子は、これを、「無が為す」、つまり、無が働く、無が役に立つ、という事を言いました。老子について、今朝は省きます。その「無が為す、無が働く、無が役に立つ」という事を少し説明させて頂きたいです。ここに茶碗が在ります。この茶碗の内側には何も有りません。何も無いから、何かをここに入れる事が出来ます。車輪の軸も内側が何も無いだから、車輪だ回る事が出来ます。内側が「無」だから役にたつわけです。この様なことを老子は「無為」と考えました。その延長線で、老子が理想とした社会は、あくせくしないで、「静かに暮らす」という事でした。大きな国家で王や権力者が繁栄の為に、国民をしっかり働かせる、またその為に「法」を作ったり、違反者を取り締まる様な国家では在りません。小さな村で、お互いをよく知っていて、穏かに暮らせる社会が理想でした。自由で静かな人生こそ、命の根源が与えてくれる理想の人生でした。

 

 

 

 「無為」のもう一つの大きな喩えが「谷」です。谷はそこに何も無いから谷になっているのです。山が在って、谷が在る。谷は何も無いので「低い」です。ですから、山の水が、地表、或は地下を下へ流れて、一番低い谷で、「泉」となって湧いて来ます。水が湧くので、そこに小さな生物、苔や水草、カエルや小魚など小さな生き物が生れます。「命を生み出す谷」ですから、老子は、それを「谷神」コクシンと名付けました。私が「湧いて来る命」と申しましたのは、この谷神が生み出す命です。この谷の命は、下に流れてより大きな物を生み出し、田を潤して稲を育て、やがて人間を養うのです。自然と言っても良さそうですが、老子は漠然とした自然ではなく、それを絞って、一番の源を谷神と名付けたのです。

 

 

 

 現代文明は、この自然を破壊して発展しています。東南アジアでは、輸出する物が無いので、木材を輸出するために、山の森を伐採して、山はハゲ山となって、大雨が降ると水は赤土などの土砂を下流に流し、下流の人々の生活を破壊し、海も豊かな漁場が駄目になります。南米のアマゾン川も非常に大規模な開発で、森林が破壊され、とても回復できない破壊が起こっています。世界の経済問題、南北問題、過去500年に及ぶ欧米の光と影が今そこに深く及んでいます。谷神から湧いて来る命を大事にしなければなりません。しかし、人間の歴史は、その様には動いて来ませんでした。富国強兵は古代の国々が繁栄する最も大きな力でしたし、今もそうです。歴史の一つ一つを今見ることは出来ませんが、その流れの中で、犠牲者を必ず生み出したし、今も生み出しています。イエスの時代のガリラヤの極貧の人々プトーコイが正にその象徴・シンボルです。ガリラヤは海面よりも低い所に在る、開けた所ですが、元々豊かで、隅々まで耕されて、農産物も豊富な所です。それだけに昔から北方のアッシリアやバビロニアに侵略され占領され、異邦人も住みつき、エルサレム以南のユダヤ人とは言葉(方言)慣習も違い、またい4:15では「異邦人のガリラヤ」と呼ばれています。豊さゆえに搾取され、一部の人々は非常に貧しい状況に捨て置かれました。

 

 

 

 先週の奨励でもお話しましたが、イエスの時代には、ローマ、ヘロデ、神殿宗教者たちなどいくつもの権力によって搾取され、人々は極めて貧しく、健康状態も悪く、ユダヤ教の指導者たちからは、神に従わない「罪人」と決め付けられ、ユダヤ社会から排除されていました。この貧しく弱く小さくされた人々のために、神の愛から離れてしまった神殿宗教、律法主義に立ち向かって、主なる神の愛を説き実践したイエスは、結局、時の権力に殺されました。イエスは自分の命をこの貧しく弱く小さくされた人々に注ぎかけたのです。このイエスが人々に注ぎかけた命は、十字架の死の向こうから、普通の人々の死の向こうから、人々の有限な命の向こうから、つまり、永遠の神の国から、その死を突き破って来た命なのです。弱く小さくされた人々を大事にされる神ご自身の、永遠の神の国から、人間の死を突き破って来て下さった命です。その命、即ち、永遠の命に復活されたイエス・キリストが芳野さんに出会って下さった出来事が、いま、ここで、起こったのです。

 

 

 

 これは、神の永遠の命が、人間の死を突き破って、芳野さんに出会って下さった出来事、神が私たちを大事にして下さる、その一方的な御心から起こった出来事、その御心からしか起こり得ない出来事なのです。私たちは、ただ感謝して、アーメンと受けるだけです。私たちの主イエス・キリストは、今も生きて、私たちと共に居て、私たちのために働いて下さって居られるのです。死を突き破って永遠の命を、私たち一人一人に注いで下さる主イエス・キリスト 感謝 アーメン