「神の国も三権分立」              2020年2月23日

 

 ルカ9:46~48     招きの詞 マルコ4:30~32

 

 

 

 皆さま、お早うございます。今朝は「神の国も三権分立」というとてつもない題をつけましたが、東京高検の黒川検事長の定年を延長すると政府が決めましたが、これは見主主義の根幹の三権分立に抵触する大きな問題です。黒川氏を検事総長にするためだと言われていて、非常に危険な事です。三権分立の歴史を見ますと、はっきり三権が分立していたかは問題ですが、紀元前5世紀頃の古代ギリシアまでさかのぼります。ソークラテースの時代は、裁判も選ばれた人たちより判決が決まっていました。民主主義の基本がそこに在ります。台湾では五権分立で、試験と監察が独立しているのです。国の権力はきちんと国民のために仕えなければなりません。勿論神の国は、民主主義とか共和制の国ではなく、真の意味で神ご自身が治められる国です。権力?を持つのは神ご自身です。それを三権分立としたのは、神の三一論のためです。神の国を治める神は三一の神です。普通、三位一体と言いますが、この「位」はペルソナを訳したもので、一種の「人格」という理解です。三つの「位格」が本来は「一つ」だという事で、中々難しいです。

 

 

 

バルト先生は、この「ペルソナ」を使わないで、「三一」Drei(3)+Ein(1)で、Dreieinigkeit(ドライ・アイニッヒ・カイトと言います。神の「存在の仕方」の違いだと言います。それは三角形のように三つが並行しているわけではないと思います。今朝は神学の授業ではありませんし、私も力が在りませんので、詳しくは説明できませんが、神の私たちへの「働き掛け」が違うのだと申し上げたいです。神が私たちの為に働いて下さるお働きの仕方、神の業が違うのだと考えます。先程、讃美歌2番を歌いましたが、予め三島さんに「三一」の話をする事は申していませんでした。偶然、三一の讃美歌を三島さんが選ばれたのでした。イエスが子なる神で在る事を認めない、ユダヤ教やイスラム教には、この三一論は在りません。キリスト教と同じ「旧約聖書」を元にしていますが、神の子イエス・キリストを認めていないからですし、旧約聖書には三一論は無いと言われています。創世記の人間創造の時に、神が「我々に似せて、人間を創ろう」と神(エロヒーム)と複数形が使われていますが、三一の発想は在りません。

 

 

 

三一と言いましても、△の形で、三つが並列して、私たちの目の前に居られるのではないと思います。極端に言いますと、この△が縦向きと言いますか、手前にどれかが近い形だと思います。私たちに一番近い所に、子なる神イエス・キリストが居て下さると考えています。と言いますのも、バルト先生に依れば、神は「絶対他者」で、私たちは神の事を決して分かる事が出来ないのです。でも唯一分かる方法は、「神ご自身がご自身を、私たちに現して下さる」しか在りません。神が私たちにご自分を「開いて下さる事」です。神がご自分の事を語って下さる、その言葉、神の言葉が人となってこの人間の歴史の中に、1回だけ現われて下さった出来事が、イエス・キリストの出来事なのです。イエス・キリストは「人と成られた神の言葉」なのです。

 

 

 

バルト先生の膨大な教会教義学(未完)の初めは、「神の言葉」Wort Gottes から始まります。この「言葉」が肉と生って人間世界に来て下った事から、神の事が分かるのだと言います。それがイエス・キリストで、その事をお祝いするのがクリスマスです。私たちが昇って行って神に辿り着いたわけではなく、逆です。神がこの世界に降りて来られたのです。ですから、イエス・キリストが一番近い手前に居られると勝手に思っています。どうして、天に居られた神が人間に成って降りて来られた事を三つに分けなければならないのかでしょうか。例えば、日本では10月は、天に居る神が、全国のお祭りに出かけて、天に神が居ない状態なので、10月を「神無月」と言います。先程のルカ福音書では「私を受け入れる者は、私を遣わしになった方を受け入れるのである」とイエスは言います。そこには区別が在ります。この辺りから「三一論」が生まれたのではないでしょうか。

 

 

 

でも、私は「聖霊」の事をあまり語らないので、時々お叱りを受けています。私は、神のみ心を知るのは、イエス・キリストを通してだと信じています。イエスを通して神の憐れみを受けるのだと信じます。しかし、イエス・キリストは私たちの肉眼では見る事が出来ません。その見えない方から、何かを受けるという事は、結局は、神の言葉としての「聖書」から受けるのです。私の思い違いかもしれませんが、「聖霊」という時に、「聖書」を別にして、「直接、神から、イエスから」となりがちな事に危惧を感じているからです。そしていわゆる、「聖霊体験」が大事にされます。しかし、私は「聖霊」もイエス・キリストと一体で、イエス・キリストの働きをされるのだと信じます。三一論の最も大事所はここだと思います。聖霊はイエス・キリストと重なる、或は、同じ、だと信じます。「私を受け入れる者が、父なる神を受け入れる」のだとイエスは言います。この「重なり」が大事だと思います。ですから、神は「イエス・キリストの父なる神」であり、聖霊は父なる神と子なる神イエス・キリストから頂く出来事」だと信じます。

 

 

 

それは結局、聖書からという事です。聖書を外して、「父なる神よ!」とか、「御子なるキリスト!」とか、「聖霊様!」と言っても、違うのだと思うからです。バプテスト主義の大事な一つは、「聖書主義」という事です。聖霊も祈りも大事です。同時に聖書からイエス・キリストを私たちは受けるのだという事です。ただ、聖書の文字を大事にするという意味だけではなくて、そこに聖霊が働いて、イエス・キリストの姿が、或はイエスの言葉が私たちに及んで来るのです。或る教会では「聖霊」を受けて、「異言」を語る事を認めていますが、私は「異言」を語る事が出来ませんし、語ろうとも思いません。お互いに分かり合う事、分かり合う心で、共に讃美をし、礼拝をしたいと願っています。私には「聖霊」は「イエス・キリスト」であり、しっかり重なる事が大事だと思います。「聖霊」を受ける事は、「イエス・キリスト」を受ける事です。「聖霊」ご自身が来て下さる、それは「イエス・キリスト」が来て下さる事なのです。父なる神、聖霊なる神が来て下さる事は、イエス・キリストが来て下さる事、その出来事を受ける事です。その「出来事」が、父なる神、聖霊なる神、だと信じます。

 

 

 

別の言い方をすれば、「イエス・キリストの名によって」起る出来事なのです。三一の神は、子なる神イエス・キリストが私に寄り添い、共に歩んで下さる、その出来事からの父なる神、聖霊なる神、だと信じます。父なる神、聖霊なる神が「居られる」というよりも、日々私が生きる中で、「出来事」となって働いて下さる方が、父なる神であり、聖霊なる神だと受けています。私はイエス・キリストの最も肝心な出来事が十字架だと信じます。父なる神、聖霊なる神と一体となって働いて下さる方が、私たちの主なるイエス・キリスト、三一なる神です。アーメン