全ての人を照らすまことの光」 

                 2019年3月3日       

 

ヨハネ1:9~11     招きの詞マタイ4:12~17

 

  皆さま、お早うございます。もう3月ですね。手術前の事が嘘の様な毎日を過ごしていますが、春は明るく希望を感じる季節だと思います。今朝は陽が照っていませんが、春の温かい朝日を浴びると嬉しい気持ちになりますね。光に命を感じます。先週は北海道などの分厚い氷の下で光合成がなされ命の連鎖が始まっている話を致しました。私たちには遥かに遠く遥かに小さい世界です。普段は感じないですが、その様な小さな世界に支えられている話でした。今朝は光を考えて見ました。バプテスマのヨハネが証をしようとしている光です。天地宇宙を創った光です。神が「光あれ!」と言われて出来た光ではなくて、この世を創った光(言)で、世に来てすべての人を照らす光です。本田神父は「その光は本物だった。その光は世に来ており、すべての人を照らしている」と訳しています。すでに来ていて、人を照らしてくれているのです。全ての人を照らすと訳されているのですが、元の言葉は「人の事を全て」と人は単数形で「全ての事」が複数形で、この二つが並んでいるのです。この解釈は色々でしょうが、私は「人の事をすべて」と訳したいです。つまり人の隅々まで照らすのです。その光がこの世に来て私たちをいま照らしてくれているのです。

 

  この世はコスモスという言葉で、皆さまご存知ですよね。天地宇宙も指します。この世は人が住んでいる部分だけに聞こえますが、宇宙全体の創られた世界です。10節は「言が世に有って」と、主語が言ですが、これも解釈がいろいろ在ります。天地宇宙全体を照らす光ですが、乾燥地帯、砂漠で光は全てを焼き尽くすような光でも在ります。死を招く光です。でも私たちは光そのものを見る事はできません。光を美しいとはあまり感じないですね。光が当たっているものの形や色を見ています。それを或る人は芸術として表現してくれています。光はギリシア語でφωςと書いてフォースと読みますが、英語式に書くとphos ですが、これの属格、「光の」は photos で、この綴りはお判りでしょう。photo は「写真」ですね。光が当たってできる芸術、絵画もそうですが写真もです。この頃「動画作家」という言葉が在るのをこの頃知りました。風景を詩の様に撮るのです。その第一人者として保山耕一という方がいます。元テレビカメラマンでしたが、末期の癌で倒れてそのままだとあと1,2ヶ月で死ぬと宣告され、手術が出来るまでに先ず回復させて、手術を受けて成功しますが、それでも5年後に生きている可能性は10%だと言われたのです。そして苦しい闘病生活を続けます。抗がん剤の副作用や孤独に苦しみます。残る人生は「死」しかないのかと苦しみます。将来には何の希望も無い。或る時にスマホに動画の機能が在る事に気がついて、スマホで動画を奈良を撮り始めます。

 

 そして動画を撮っている間は、苦しみも忘れる事が出来ると気がついて、その事に打ち込み始めたのです。春日大社や東大寺など奈良の隅々まで歩いて撮ります。その写真をSNSですか、他の人々が見れる様に配信します。それを他の末期癌の人や、余命幾ばくも無いと宣告された人々が見て、感動し、励まされます。お互いに支え合う関係が多くの人々と出来ておられます。先週日曜日の朝、教育テレビで「こころの時代」という番組を偶然録画していたのですが、本当に感動する美しさです。インターネットのユーチューブで見る事が出来ますので、ぜひご覧になって下さい。闘病生活の苦しい中を潜り抜けていま、他の人々に希望を与えています。保山さんは死を宣告された時には、こんな今の世界が在る事を全く想像もできなかったと言います。先週の私のメッセージでブルームハルト牧師の「待つ」という事を紹介しましたが、それに対して梶原兄が「イエスは既に来て、ここに私たちと共に居られるのだと自分は信じている」と言われました。イエスは確かに既に来ておられるのですが、人生には時が在る、動きが在ると思うのです。

 

 私は人の命、人生には「ドラマが在る」と申し上げたいのです。今だけの固定した世界ではありません。ドラマが在って、人生が動くのです。絶望の時が在るけれども、それで終わりになるとは限らないのです。保山さんもそうですし、また、彼が映す花なども、きれいなのだけれども本当に美しい時が在ると言います。藤の花が輝くように美しい時が1年に1回、5~10分ほど在ると言います。蓮の花にも2~5分、光っている、笑っている様な時が在る。新月の翌日の細~い鉛筆で書いたような月が一番きれいだと言いますが、これは誰でも見れるけど、見ようとしなければ見れないとも言います。信仰の世界のようにも思いますね。すべての人を照らしている光で、だれでも見れるけど、見ようとしなければ決して見れません。イエスの言葉も全ての人に語られているのですが、これも聴こうとしなければ聞く事ができません。もっとも、イエスの力は私たちの思いを越えて働いて下さいます、向こうから力強く迫って来る事が在る、とは思います。

 

 奈良の御山に出ている虹を撮りたいと思われますが、そんなに簡単に虹が出る訳はないのですが、1週間から10日程、毎日、その瞬間を待っていて、ついに御山にかかる薄~い虹を撮ります。それをだれでも見れるんだけれども、見たのは、大勢の人が周りに居たのに、それを待っていた自分だけだったと言います。それは亡くなった或る女の子に献げるつもりだったのに、逆に、その女の子に映させてもらっらたのだと思われます。保山さんは絶望を越えて、いろんな人たちとの話の中で、先に亡くなった人との出会いが有ったりして、他の人たちが写真などを通して自分に出会ってくれるから、自分も死で終わりではないのだと今は信じておられます。人の命にはドラマが在ると今、思います。人が生きているのには、主の恵みにも出来事が起って、そこにドラマが在ると思います。時が在って、その場面に出くわして、何かほっと分かるのではないか。私たちはイエスの光にいつも照らされているのですが、でもその事に気付く時、その事に喜びを感じる時が在る、人々との出会いや話の中で、ドラマが在って、私たちはイエスの言、光を感じるのではないでしょうか。

 

  先ほど、スズ子さんから永愛ちゃんの言葉を見せて頂きました。やはり、いつも喜びが起るドラマだけではない事は思います。中々理解し合えない、分かって貰えない、そんな事も多いです。ドラマも様々です。主イエスが既に来ておられて、その光、喜びを誰でも見れるのですが、実際に見て喜びを頂くにはドラマが在って、人々との出会いが在って、喜びが起こされていく、と今感じています。「その光は本物だった。その光は世に来ており、すべての人を照らしている」のですが、だからこそ、現実に私たちの間で喜びが起こされていくのだと信じます。誠の光が、私達の事全てを、隅々まで照らして下さる光を、今朝は皆さまと共に受けさせて頂きました。