「この人たちの信仰を見て」     2018年9月30日

 

  マルコ2:1~7   招きの詞 マタイ20:25~28

 

 

 

  皆さま、お早うございます。台風24号の被害がどうでしょうか。この自然災害に対して被害が無いように祈っても効くのだろうかとも思いますが、少なくとも被害が少ないようにと祈りたいと思います。今日は沖縄県知事の選挙の日です。例の辺野古基地が大きなテーマになっているようですが、それだけではなくて、沖縄の人々の内側に秘めた思いが本土では中々受け止められません。翁長前知事は元々は自民党の方、保守の方なのです。辺野古反対は革新だと思いがちですが、翁長氏が辺野古反対に傾いて行かれたのは、やはり、沖縄の人としての思いが本土に伝わらない。いつも大事な事では外、そして都合の悪い事はポンと沖縄に持って来る、その様な事の中で、沖縄の人々の底辺からの思いで活動されたと思います。その様な事がこれからも大事にされるようにと願います。

 

 

 

 先週は福田先生の非常に円熟したと申しましょうか、そんなお話で、ペトロを題材に信仰の軸足、中心を何処に置いているか、との問い掛けでした。私たちはどの様に答えられるでしょうか。自分ではイエスに軸足を置いている、イエスを信じていると思っています。実はペトロもその気持ちだったと思います。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」(ヨハネ13)と言ったのは真剣な気持ちで、告白したと思います。ところが、それが崩れて、イエスを否定する場面が出て来るのです。心底から思っていたでしょう。私たちも同じなのではないでしょうか。絶対にそう信じていると思って叫んだとしても、実際にそうである事とは別なのです。熱心さはそれなりに意味があると思いますが、だから私の信仰は正しいと思ってしまいます。イスラムのテロもそんな事だと思います。どうしたら私の信仰をイエスに認めてもらえるんでしょうか。イエスを信じて生きるのはどの様にしたら良いのか。

 

 

 

 軸足を本当にイエスに置くにはどうしたら良いのか。中風の人を担架に乗せて来た4人の人の生き方、ここを中心にして今朝は考えて見ました。皆さまは新共同訳のマルコ2:1からをご覧下さい。私は本田神父の訳をゆっくりお読みします。2章のタイトルは「低みから立つ貧しい人には、罪を赦す権威が備わる」です。「数日後、イエスは再びカファルナウムに来たが、イエスが家に居る事が知れわたった。それで大勢の人が集まって来て、戸口辺りまですき間もない程になった。イエスは人々に神を告げる出来事を話していた。そこへ4人の人が、体が麻痺した人を連れて来たが、民衆に阻まれてイエスの所まで連れて行けないので、イエスが居る辺りの屋根をはがし、穴を開けて体の麻痺した人を担架に寝かせたまま吊り降ろした。イエスはこの人たちの信頼に満ちたふるまいを見て、体の麻痺した人に、「子よ、あなたが道を踏み外した事は赦してもらえる。」本田神父は信仰という言葉を「信頼に満ちたふるまい」とか、他の所では、「信頼をもって歩みを起こしたことが、あなたを救ったのだ」と訳されています。ですから「信仰」とはただ単に心とか魂の問題だけでは、生きる事が神への信頼に満ちているかどうかなのです。

 

 

 

 イエスを信じて生きていく、この事こそ大事だと思います。どの様に生きるのか、生き方です。この4人の人が中風の人を運んで来たのは、他の人、他の困っている人の為の信頼です。4人の人の振る舞い、坑道を見られたのです。言い換えますと、この4人の人は困っている人の為に、イエスに信頼の軸足を置いたのです。自分の為ではありません。具体的な行動を取った。其処をイエスはちゃんと見られた。イエスにお任せして生きる時に、自分を見るのではなくて、他の人、病人、希望を失くしている人、困っている人、孤独な人、など低みに置かれている人々に目を向ける事が大事だと思われます。その様な人々の為に、先ずは祈る事です。そして祈る事で何

 

が起るのか。祈った中身が実際に実現するかどうかよりも、祈る事で、私の心が「破られる」のです。自分の思いが破られる。私の目から他の人を見て祈るのですが、心が破られる事に依って、私からの目線の一方向からだけではなくて、人を見る事が出来るようになる、これが「破られる」ことなのです。イエスに祈る事に依って、私の目、理解が破られるのです。

 

 

 

 破って下さるのはイエスです。その意味で信仰の軸足を置くのは「自力」ではないのです。イエスに拠って私が破られる、つまり「他力」なのです。イエスに信仰の軸足を置く姿勢は、自力です。しかし、真剣に祈る、しかも他の人の為に、困っている人の為に祈る、その事に依って、自分の心が破られる、他力の出来事です。イエスに破られるのですが、具体的には、その他の人に依って破られるのです。4人の人は中風の人に破られたのです。この麻痺した人に破られたと思います。最も深い所ではイエスに破られたのでしょうが、具体的には、その人に依るのです。ペトロの場合は、ヨハネ福音書では3人の別の人です。門番の女中に、他の人、そしてペトロが刀で片耳を切り落とした人の身内の人によって、あなたもイエスの仲間だと、破られます。こちらからすれば知らない人、思いもしなかった人たちに自分の思いが破られて行くのです。死んでもイエスについて行く思いが、破られます。「知らない」と言ってしまいます。思いもしなかった人に出会って、破られる。また逆には、私たちが他の人の思いを破るのかもしれません。他の人との出会いが、イエスに出会うことの写しだと思っています。皆さまがイエスと共に歩んでおられる、その意味では皆さまのお一人お一人がイエスの代わりです。自分の思いで信仰がまともになる訳ではないのです。人との出会いの中で、破ったり破られたりしながら、イエスに出会い、信頼して歩み出す、その様に導かれるのだと思います。自力で力んで、真の信仰に至るのではない、この小さな集いで、そして日常の只中で、そしてはるか彼方の人との出会いによって破られる事に依るのです。イエスご自身がその方々と共に居て下さる、そのイエスに破られていくのです。主イエスよ、お導き下さい。 アーメン