「福音と掟」            2020年12月27日       

ローマ15:1~6    招きの詞ヨハネ13:31~35

 

 皆さま、お早うございます。いよいよ、今年も最後の礼拝です。今年もいろいろ在りました。コロナに始まり、未だに終息していません。その中でお二人の方が洗礼を受けて下さり、私たちには大きな喜びと励ましでした。さて、最後の礼拝で何を話すべきか、私たちはイエス・キリストの福音を受けて、ここに呼び集められています。福音とは良いお知らせ、便り・手紙という意味です。何が「良い」のか、その根本は何かと言いますと、簡単に説明できないもどかしさも思います。今までは、イエスが私たちの罪を背負って、十字架に架けられて、罪の赦しのための贖いをして下さったと、教会は大体教えて来ました。同時に、その様には受け取らない考え方もこの頃生まれています。ギリシア正教やアフリカのキリスト教は、人は生まれながらに罪人だ、その罪の赦しにためのイエスの十字架刑とは、あまり言わない様です。先週は、「小さくされた一人が滅びる事は神のみ心ではない」という話をしました。99匹と1匹の羊の譬えをイエスは語られました。弱く小さくされた人が、慰められ励まされ希望を持って歩むことが出来る様に、イエスが共に歩んで下さる事、イエスがガリラヤの隅々まで訪ね歩いて下さった事、励まし力付けて下さった事をパウロが書いた、ローマ書を読んで頂きました。いま私は、このイエスの出来事を福音として受けています。そうした中で、お互いを互いに愛しなさい、大事にしなさいとも言われました。そこに教会が導かれるのだと思います。

 

そして神は、私たちの父なる神になられた。それは神の子、息子イエス・キリストが私たちの長男になられたからです。家族、ファミリーとして集まっているわけです。ですから○○姉、○○兄と、お互いが兄弟として集まっているわけです。ですが、イエスが「わたしの母、兄弟とは誰か」と言われた事がありましたね。マルコ3章に在り、それはマタイ、ルカにも在ります。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『ご覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『わたしの兄弟とはだれか』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」8マルコ3:31~35)

 

私たちは群れとして教会生活を送っていますが、私たちが一つの群れとなってお互いを助け合う時、それは父なる神の御心を行う者でなければならないという事になると思います。ただ、イエスが私たちを愛して下さって、家族として受けて下さった事だけではなく、またその事の故に、神の御心を行う者でなければなりません。「弱く小さくされた人の一人も滅びる事は、父なる神の御心ではない」、その為に、祈る、そして、何か出来る事を行う、この事が、ここで教えられている「掟」だと思います。掟と言えば、イエスの場合、一番大事なのは「主なる神を大事にする(愛する)事、そして、それと同じに大事なのが隣人を大事にする(愛する)ことだと言われた事は皆さま、よくご存知です。私は、一番大事な掟は「神の御心をおこなう事」だと考えます。その御心とは、「お互いを愛し、隣人を愛する事」でも在りますが、「弱く小さくされた人の一人も滅びない事」だと、今、受けています。それをまとめますと、父なる神の御心を行う群れ、それがこの教会ではないでしょうか。

 

ですから、福音と掟とは、「表と裏」のような事だと思います。福音が在れば、掟が在る。恵みとしての福音が先に立って、イエスが弱く小さくされた人々を大事にして下さる、励まし力付けて下さる、助けようとして来て下さり、声を掛けて下さる事、呼びかけて下さる事が福音です。「めげずに立ち続けなさい」という呼びかけに応えて、立ち続け、弱く小さくされた人々のために祈り、働くことが、その裏になければならないと思います。ここに週報が在ります。表紙は中身が何であるかを示していますが、裏を、つまり中身を見なければ、具体的には分からず、役に立ちません。裏の役割がちゃんと在ります。福音を受けて感謝です。しかし、同時に「神の御心を行う」事を求めるお気持ちが、イエスの言葉の中に在るのです。イエスが貴方たちの為に働いて下さるけど、同時に、貴方たちは、貴方たちよりも弱く小さくされた人々のために、祈り働いているのか、問うて居られるのです。私たちは喜び励ましを福音として受けますが、私たちは、その喜びを伝える者でなければなりません。それはこの群れの仲間の人だけではなくて、中村先生が教えて下さった様に、国境の様な人間が造った境を越えて、人が今日を生きるために、寒さと飢えの為に震えている子どもたちの為に、働いて教えて下さった様に、手を動かしてサンダルを作り、井戸を掘り、用水路を作られた様に、私たちもまた、教会の一員として受けて頂いていますが、その喜びを伝え、人々の間に実現する事を願わなければなりません。教会がその様な群れになりなさいと言われていますし、その為に「呼び出されている」のです。イエスによる喜びが、人々の喜びにならなければならないのです。その様な意識を持つ事が、私たち教会員に、求められているのです。

 

 

神の御心を行う群れ、これがイエスの家族です。長男がイエスで、その弟や妹が私たちだとするならば、父なる神の御心を行う事が、しっかりと私たちの心に決意されなければなりません。今年、その様な事がなかなかできなかったかもしれません。中にはその事を努力して来られた方々も居られると思います。心を痛めている人々のために祈り、何とかしたいとの事も在りました。時々、寄せ書きを致しました。でも、まだまだ足りません。これからもその様な事を続けましょう。教会の枠を超えて、世界の主で在るイエス・キリストが目を注いで下さる、弱く小さくされた人々の所に、私たちの目もまた向けなければなりません。今日は一年の締めくくりとして、私たちは父なる神の御心を行う決意を新たにして、新年を迎えたいと願います。主イエスよ、今年のお導きを感謝します。 アーメン