「顔を合わせる喜び」        2020年年6月7日

第一テサロニケ3:6~10 招きの詞第一コリント13:8~13

 

 皆さま、お早うございます。お変わりございませんか。2か月ぶりにこうして共に礼拝できます事を、心から感謝致します。お会い出来ます事は大きな喜びですし、神の恵み、私たちと共に居て下さるイエス・キリストのお働きに感謝です。でも、のぼせ上ってはいけません。チラッとテレビのニュースで見たのですが、イスラム教徒の人が、マスクもしないで街中を歩いていましたが、咎められると、「自分はイスラム教徒だ。神が守って下さる!」と言っていました。これは過信・盲信ですよね。今朝はこの辺りを考えて見ました。自分の事をイエスに丸投げしてはいけないと思います。私たちも自分の事、教会の事をイエスに丸投げしていないでしょうか。

 

 横田めぐみさんのお父さんの滋氏が天に召されました。彼は2017年に洗礼を受けてクリスチャンになりました。奥さんの早紀江さんは、友人から聖書を読む事を勧められて、めぐみさんが成人になる1984年、日本基督教団五十嵐キリスト教会(新潟)で洗礼を受けて居られます。2017年11月4日、滋さんも日本福音キリスト教会連合、中野島キリスト教会(神奈川県川崎市)の国分牧師から、ご自宅で洗礼を受けられました。この教会は奥さんの早紀江さんが所属する教会です。滋さんは長年、「神はいない」と公言していました。恵さんの事件を呑み込めず苦悩しておられたからだと思います。自然大災害が起こって、被害者が多く出た時も「神はどこに居たのか」という問いがたくさん発せられていました。

 

 先ほどのイスラム教徒では在りませんが、私たちも主イエスが私たちと共に居て下さり、私たちを守って下さると信じています。でもそれは、信仰の丸投げになっていないのでしょうか。では、どうすれば良いのでしょうか。顔を合わせる事が出来るのは、本当に嬉しい事であり、感謝です。でもこの事が実際に出来事になるためには、「場」(場所と場合)が必要な事がお分かりでしょうか。街中や通りで、偶然出逢う事も、それが久しぶりの場合や、思いがけない場合にはとても驚き、また喜び嬉しくなります。主イエスに感謝します。でもその時も広い意味での「場」が在ります。今の私たちはこのコロナの時を別にして、非常事態での出会いは殆ど在りません。これが戦争やテロの恐怖の中の場(合)では、特別な事だと思うのではないでしょうか。

 

 久しぶりの再会も嬉しい喜び、恵みですが、普段に会うこと、一緒にいることが、当たり前の場合、その出会いの喜びを殆ど意識しないと思います。夕方仕事を終えて帰宅して、家族の顔を見ても、中年以上ではその喜びをほとんど意識しないのではないでしょうか。しかし、この喜びが屑れる悲劇が起こると、身に沁みてそれを実感すると思います。場、つまり、場所、場合が大きな意味を持ちます。横田滋、早紀江ご夫妻の場合、それは、国家・政治の問題でもあります。国内および国外との外交の問題になります。イスラム国家やアフリカ、中南米などでの内戦、内乱、テロでは政治も絡み、宗教も絡みます。しかし、多くの場合、政治の問題、それは経済の問題です。30年以上も前でしょうか、アイルランドとイギリスとの間でテロ事件が頻発しました。駅のロッカーなど、爆発物を仕掛けられないように使用できませんでした。これは表面的にはカトリックのアイルランドとイギリスの国教会(プロテスタント)の宗教戦争でしたが、内実は豊かさを求める経済の問題が底にありました。イギリスもよく似ている面も在りますが、アイルランドは土地が痩せて石だらけの土地で、農業も低調で貧しい国柄でした。多くアメリカに移民となりました。イギリスも土地は似ている様ですが、強力な軍事力、特に海軍力にものを言わせて、当時、世界で最も豊かな国になりました。大英帝国、陽の沈む事なしとまで言われました。今、アフリカや中南米での紛争は、この経済が先ず第一の原因でしょう。それも欧米の利権に絡み、欧米の繁栄の陰が其処には伺えます。この様な場所では、お互いに顔を合わせる喜びは、場が崩れているだけに大きいと思います。その場所・場合が影響しています。

 

 私たちの事を考えて見ましょう。今朝の出会い、顔を久しぶりで合わせる喜びは、とても大きいです。この2,3か月という短期の事でしたが、日頃逢えなかったからです。でも、今朝、教会で顔を合わせる事は、当たり前の事なのでしょうか。のぞみ教会の場が備えれているのは、主イエスのお働きのお陰だから会うのが当たり前なのでしょうか。こののぞみ教会も教会組織をして、やっと一年が経ちました。一年経つのは当たり前の事なのでしょうか。主イエスのお働きは当たり前なのでしょうか。私たちは、この一年間、教会の事、主イエスのお働きと恵みの事を、主イエスに丸投げしていなかったでしょうか。教会に集えるのは当たり前、神が守って下さる教会だから、当然だと思って来なかったでしょうか。

 

 日曜日に、この時間に此処に来れば、礼拝がなされるのは当たり前で、何の不思議もないのでしょうか。でも、このコロナウィルスの故にそれが当たり前ではない事が、分かりました。私たちは、この主イエスの恵みお働きに対して、どの様に応答したら良いのでしょうか。」英語で「応答する」というのに、どんな言葉が在るでしょうか?一つには、皆さま良くご存知の、”answer” が在ります。質問に「答える」言葉として、先ず覚えて英語だと思います。「返事する」と覚えました。子供の頃、何かを人から頂いたり、何かを人からしてもらうと、「ありがとう」と返事する、応答する事を教えられました。私たちは、今、心を込めて、主イエスに「有り難うございます」と言っているでしょうか。

 

 

 心を込めて有り難うと言うのは、どうする事でしょうか。主イエスが私たちの感謝を受けて下さるには、私たちはどうしたら良いのでしょうか。主イエスが教えて下さった、最も重要な掟(マルコ12:28以下、他)は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。そして第二もこれと同じで、自分と同じように隣人を愛する事、つまり、心を尽くし~~隣人を愛する事だ」と言われました。主イエスに感謝する事に、私たちは心を尽くしているでしょうか。精神を尽くしているでしょうか。思いを尽くしているでしょか。力を尽くしているでしょうか。尽くしていないことの、言い訳をする必要は在りません。私たちの言い訳が通るでしょうか。私たちの言い訳が、顔を合わせる事が出来ない方々に通用するでしょうか。つまり、主イエスキリストに通用するでしょうか。少しでも、一ッ歩でもこの主イエスの教えに Answer する生き方を、主イエスよ、導いて下さい。私たちが拘る、自分の小さな安心から、私たちを解放してください。主イエスよ、拉致被害者の方々のお一人おひとりを、横田滋兄をあなたの身元で励まして下さい。横田早紀江姉を慰め、何よりも行方不明の横田めぐみさんを励まして下さい。すべての顔を合わせる喜びを奪われている人々を慰め、励まして下さい。あなたご自身がガリラヤの弱く小さい人々と顔を合わせて喜んで下さいました。