「深い悲しみの果てに」          2019年4月14日

 

マタイ27:45~50 招きの詞マタイ9:35~38

 

 

 

 皆さま、お早うございます。今日から土曜日までが受難週です。金曜日に十字架に掛けられたので受難日、英語でGood Friday と先週に紹介しました。イエスの受難を端的に言えば、イエスが十字架に掛けられて殺された事です。なぜ、神の子が十字架に掛けられて殺されたのか、今最も多く信じられているのは、私たちの罪の贖いの為に、という事です。私にそれを今すぐに否定する力は在りませんが、この頃このバプテスト連盟の中に非常に敬虔主義的で、教条主義的、保守的と言いますか、聖書に書いてある事は真実で、信じないのは異端だという方々が現れ始めました。処女マリアからイエスは生まれたのだとする処女降誕を否定するのは異端だと言います。十字架が罪の贖いのためである事を否定するのも異端と言います。だいぶ前に日本に多くの宣教師を送っていた南部バプテストが、聖書に書かれている事をそのまま信じないなら宣教師の資格をはく奪し、多くの宣教師が辞めました。特に西南学院に居た宣教師たちはその立場を離れて、西南学院が雇う職員になりました。非常に極端な聖書主義、聖書には一つも間違いはないとする立場です。もちろん、私も聖書が神の言葉だという事を否定するつもりはありませんが、私はこれを注意しなければならないと思います。

 

 

 

 例えば、マルコ福音書は降誕物語には全然、触れていません。その様な神の子イエス・キリストの理解もある事ですし、カトリック教会では今でも、女性はミサの時にはベールを被っていますが、殆どのプロテスタント教会は実行していません。人の信仰を縛るような、否定する様な事は気を付けなければならないと思います。例えば、イエスの弟子たちの不信仰を怪しみながらも、全く否定される事も無く、共に伝道されたイエスの大らかさを思います。先週はイエスがガリラヤの「極貧の人々プトーコイが飼う者のいない羊の群れの様に打ちひしがれ、弱り果てているのを見られて、「深く憐れまれた」事を、先週は「心を奪われた」と言い換えてお話をしました。「憐れむ」という日本語は、何となく上から目線の様に私には思えるからです。「あいつは憐れな(哀れな?)奴だ」とか言います。上から目線に感じますが、元の言葉は「ハラワタが痛くなる、突き動かされる」という意味の言葉だとお話しています。どんな訳が良いのでしょうか。イエスは天の高い所から降りて来られた方だという尊敬の念、奉るという気持ちからの訳だと思います。

 

 

 

 そこを何か良い言葉は無いかなと思って、今週は「深く悲しんで」と置き換えてみました。「深い悲しみの果てに」と題しました。弱り果てた人々への単なる同情ではなく、自身が深く関わる言葉として、イエス自身が「深く悲しんだ」という事です。イエスが、元々は弱い人々を助けるべき、つまり神の名を名乗る神殿宗教者たちや律法学者たちが、富と権力者の側に立っている勢力との対決にまで至ります。それはイエスの深い悲しみの故だと思います。この人々の凄まじい姿に、誰がこんな姿にしたのか、また、この状況に誰が救いの手を差し伸べるのか、誰も居ないのか、神の名によって神殿に参拝し献金を集める祭司たちよ、律法を守れと迫る律法学者たちよ、何も救いの手を差し伸べないのか、お前たちはそれで良いのか、という気持ちになり、実際に対決して行きます。富と権力の頂点にはローマ皇帝が居ます。ですから、イエスはローマの「十字架刑」になったのです。ユダヤの死刑は、木に吊るす、石を投げつけるなどです。富と権力のローマ皇帝の名の下に十字架刑に処せられたのです。

 

 

 

 その時、イエスは弱く小さくされた人々をまとめて、権力に対する暴動や武力闘争をする道を選びませんでした。その道を辿れば、尚の事、この人々に決定的な被害が出るからです。武器を持ったローマ兵に勝てるはずはありません。イエスはその方向には進みませんでした。そして自分自身はローマの権力に負ける、屈服する形で、十字架刑に処せられました。それはローマ皇帝の権力に取り込まれる事です。服従したのです。服従しなければ殺される、その構図のままです。しかし、其処に、イエスの側、非常におこがましいのですが、父なる神の側には、人間的な思い以外の事が働いていたのではないかと私は思うのです。如何にもこの世的にはローマ皇帝の権力に負けて服従しました。取り込まれました。権力に従わさせられる事で、従わせる側の核心の中に、静かに奥深く忍び込む、目につかないけど、そんな事が起こる、そんな事の始まりが、ここに起こったのではないかな、と思うのです。 

 

 

 

キリスト自身も死刑になりましたが、その後、本当に凄い数のキリスト者たちがローマの権力に殺されます。日本でも数えきれない程の犠牲を生みだしました。しかし、その犠牲の故に、と言いますか、「俺が勝った」という心の隙に、ローマ皇帝の心深く、核心にキリスト者たちの従順さ、神への信頼、つまり、この人々を神が支えているという事が、ローマ皇帝の核心に忍び込む、その事に気付きもしない、防ごうにも防げない、奢り高ぶった心の隙間に、イエスの死、キリスト者たちの死が、神の愛の故である、神は弱く小さくされた人々を守って下さる出来事の十字架が忍び込むのです。そしてそのイエスの出来事を心底信頼する人々、その人々の深い悲しみに応える、唯一の道筋として、その人々の深い悲しみを共に担う、その悲しみを受ける、その悲しみを受けて貫くこと、これしか無いように思えます。暴動や反乱などの道ではありません。強大な権力もいつの日にか、ひっくり返されています。永遠に続く権力はありません。決してその道は永続しません。

 

 

 

 人々の深い悲しみを共に担う、その悲しみの先頭に立つ、それが十字架刑に服する事であったと信じます。極刑に服する形で、権力者の核心に忍び込む、そしてそれをいつの間にか、ひっくり返す、その隙間にイエスは、そして犠牲となったキリスト者たちが忍び込んだのです。遂には当時の最大の権力、ローマ帝国をひっくり返す事になったのです。血を流しての闘いの果てではなく、一方的な犠牲に見える道筋によってです。つまり、イエスが十字架刑に服する形でした。「イエスが十字架の上で「エロイ、エロイ、レマサバクタニ」と叫んだのは、ひょっとして、十字架刑に処せられなくても、父なる神の力で奇跡が起こる事を期待されたからだと考える人々も居ます。私はそうは思いませんが、実際、その奇跡は起こりませんでした。

 

 

 

 イエスが十字架刑に処せられた事は、如何に深くイエスは弱く小さくされた人々の深い悲しみを自分の悲しみとして共に担い受けられたか。その深い悲しみの果てに十字架が有り、そして更にその深い悲しみの果てに、イエスの復活が在ると信じます。 イエス・キリストの受難 アーメン