「初めに言が在った」          2020年1月5

 

ヨハネ1:1~5    招きの詞 申命記30:11~14

 

 

 

 皆さま、明けましておめでとうございます。昨年は本当にお世話になりました。お一人おひとりに感謝したと思います。有り難うございました。お疲れ様でした。今年もどうぞよろしくお願いいたします。年の初めですので、「初めに言が在った」という箇所を選ばせて頂きましたが、初めは、私が良く見るNHKテレビのスペシャリストから話をさせて頂きます。昨年9月に放送された、認知症介護士の方々の中から、大牟田でグループホームで働いて居られる女性の介護士の方から学んだ事をお話させて頂きます。この方の事は前にも放送が在ったそうです。10年以上前からの記録が放送されました。認知症は脳が段々委縮して起こるそうで、当人にとっては段々自分自身が分からなくなって、不安や恐怖に襲われるのだそうです。一番困っているのは当人で、外の事がパッと認識できない、これが何であるかが分からない。だから外の事をシャッタウトして自分に逃げ込む。それでも、この介護士の方は「心は、生きている」と思って相手に接する事にしているとの事です。

 

 

 

 感覚などは鈍くなっているけど、心は生きている。そうして接し方を「相手の世界にお邪魔する」と言われます。相手の認知症の方と同じ姿勢を取りながら、すぐ傍で語り掛けます。語り掛けながら、相手の表情を読み取って、心の内を察するわけです。その認知症の方が、自分の力を精一杯発揮して、暮らしを続けられる様に、生き続けられる様に、その人を支えて行く。本人がやはり力を精一杯発揮する事が大事で、周りが全てを助ける事では決してないそうです。その人を支えるのですが、その事が本人にとって良いのかどうかを常に考えながら、支える。支えるというよりも、その方とお付き合いする気持ちだそうです。この方の姿勢を私は、イエスに重ねているのです。イエスが神の国から降りて来られたというクリスマスが在ります。それは何の為なのか、いろいろ受け止め方が在ります。

 

 

 

この方の事を応用しますと、人間をよく理解し、人間が精一杯力を発揮して、生き続けられるように人間の傍に来られた、人間の世界にお邪魔されたのではないか、と言えそうに思えます。私たちと同じ姿に生られて、同じ姿勢でその人を支えて行く為ではないかといま思います。それが人間にとって、或は私にとって、良いのかどうか、考えて下さりながら、お付き合いして下さるのだと言えそうです。イエスが私たちと共に居て下さる、その事を、この様に表現できるのではないかと思うのです。寄り添って居て下さるという表現も在りますが、私たちの世界にお邪魔して、お付き合いして下さる。私たちが精一杯力を発揮できるように。

 

 

 

こんな事を考え乍ら、ヨハネの冒頭の「初めに言があった」を選びました。しかし、このままでは余り喜びというか、まるでギリシア哲学の様で、希望も直ぐには感じられないです。そこで、ひょっとして山浦玄嗣先生は思い切って意訳してるのではないかと思って、四福音書を訳した「ガリラヤのイエシュー」を見てみました。案の定、意訳されていました。「初めの言葉  初めにあったのは 神さまの思いだった。思いは神様の胸にあった。その思いこそ神さまそのもの。2初めの初めに神さまの 胸のうちにあったもの。3神さまの 思いが凝(こご)って あらゆる物が生れ、それなしに 生まれた物は一つもない。4神さまの思いにはあらゆるものを生かす力があって、それはまた、生きる喜びを人の世に 輝かす光だった。5光は人の世の 闇を照らしているというのに、闇に住む人はそのことに 気がつかないでいたのだった。」

 

 

 

非常に分かり易いと言いますか、神はやっぱり私達の事を思っていて下さる方だという事が分かる様な解釈をされています。私もできるだけ、こんな風に聖書を読みたいと思います。今まで私はギリシア語文法や単語の意味等を大事にして来ましたが、聖書が今から二千年程前の言葉で書かれている訳ですが、日本語でも今から千年前の言葉が今直ぐに通じるわけではありません。解釈も違ってきます。現在の私たちに響くような理解の仕方は出来ないでしょうか。その方向で努力して参りたいと願います。私もチャレンジしました。「初めに神が人を思う事が始まった。その人への思いを神は心に留めていた。 その人への思いこそ神であった。その人への思いを、神は心に留めていた。 全ての物事はこの神の人への思いから出来た。神の人への思いによらないで出来たものは何一つなかった。 この神の人への思いに命があった。命は人間を導く光であった。 光は人間の絶望の中で輝いている。絶望している人は、光が何であるのか、分からなかった。」まだ熟していないのですが、初めに言が在った、と直訳ではそうなります。

 

 

 

言とは何なのでしょうか。私たちを思って下さる神の思い、普通、神のみ心と言われて来ました。それを「言」としてヨハネは書いているのではないでしょうか。私たちが、神を信じるとか、信じないとか、神を思うとか、そういう事の前に、先ず宇宙と言いますか、世界と言いますか、その一番初めに、神が人の事を思って下さる、その事が始まったのです。神が私たちを思う、その事が、一番初めで、そこから全てが始まった。つまり、神から始まったとヨハネは伝えるのです。「初めに言があった。言は神と共に在った。言は神であった」。神が私達の事を、あなた方の事を思う事が先ず始まった、先ず、神が私達の事を思っていて下さるのだ、その事をヨハネはこの様に表現したのではないでしょうか。神から始まった、そこに私たちの希望が在るのです。私たちの拠り所なのです。私たちには信じきれない、疑う、いろんな事が在りますが、その私たちの全てを神が思って下さる事が始まった!これが福音の初めだと思います。

 

 

 

私たちが迷ったりしている、その事を神が心配し始めて下さった。それで良いとね?あの人はあれで良いとかね?ちょっと危ないよ。私たち一人一人の姿を神が心に留めて下さる事が始まったのです。その様にこの聖書の言葉を読ませて頂いています。神が私たちの世界にお邪魔されたのです。お邪魔されたのは、私達の事を、とことん支える、私たちの傍に居て、同じ姿勢を取りながら、同じ姿に生りながら、分かる。あなたのいろんな悲しみや苦しみを私は分かりたい、と言っていて下さる、そこに神の言が在るのだと信じます。

 

 

神のみ心に導かれながら、今年もこれからも歩み続けたいと願います。神が私達の事を思い始めて下さった。そこから私たちの生き方が始まっています。神の言、イエス・キリスト 感謝 アーメン