「聖なる高みに昇るのか、低みに立つのか」 

                 2020年10月18日

 

Ⅰコリント13:8~13   招きの詞Ⅰコリント4:10~13

 

 

 

 皆さま、お早うございます。今朝も礼拝にお出かけ下さり、感謝申し上げます。お忙しいのに、この時間を特別なものとして、大事にして頂いて感謝です。それだけに責任も感じます。皆さまは教会に来る事をどんな事だと思って、来て頂いているのでしょうか。ご自分の日常をそこに置いて、キリストに出会うために、神と出会うために来ておられるのでしょうか。それは日常生活の世界から、外の神の世界に移動する事でしょうか。いわゆる、宗教の世界は大体その様な構造を持っていると思います。仏教でも神道でも、お寺や神社に「お参りする」と言いますね。日本では何故か、年の暮れの大晦日の夜には、お寺の百八回の鐘の音を聞き、ソバを食べて、新年には雑煮を食べて、神社にお参りしますね。それで、教会によっては、新年礼拝をする教会も在ります。のぞみ教会は新年礼拝をしていませんが、ご要望が在りますか。1月の事を、昔は睦月と呼んでいましたが、これは家族が揃って新しい年を迎えて、皆で睦まじく過ごす事から来ているとも言われます。

 

 

 

 ともかく教会は聖なる所で、少なくとも、聖なら方につながる特別な場所なのでしょうか。これまでカトリック教会を初め、教会をその様な特別な場所として教えて来ました。その特別な場所のシンボルがミサで在り礼拝だとされて来ました。私もこれまで大体その様に信じていましたし、その意味では特に礼拝を、そしてメッセージを重要だと考えて来ました。今もメッセージを大事だと思いますし、何をお伝えするか、それを考える事が私の生活の中心になっています。いつもメッセージを考えています。そしてメッセージを考える事は、聖書を読む事ですし、その聖書の言葉を「説いて教える」ので、「説教」と呼ばれていると思います。のぞみ教会では「奨励」と呼んでいます。イエス・キリストの言葉、聖書の言葉をお奨めして、生きる事を励ますという意味でしょうか。その時、用いる言葉は主に聖書の言葉です。聖書は神の言葉だと信じられているからです。でも実際には、キリスト教会内部の言葉となっていて、教会の外の方々には、分かり難くなっているのではないでしょうか。芳野さんも松井さんも、聖書の言葉に慣れておられないので、分かり難い所もお在りだと思います。

 

 

 

 しかし教会生活を長く続けて来られた方々、聖書に親しんで来られた方々には、キリスト教会の言葉に慣れて、その言葉が当たり前になって、何か分かった様な気がして、神のお心、キリストの福音が分かっている気になられて居られるのだと思われます。この「福音」という言葉が先ずそうです。福音とは「喜ばしい便り」という意味で、昔は「良きおとずれ」と言われていました。気仙沼の山浦ドクターはマタイ福音書を「マッタイがたより、便り」と訳しています。山浦ドクターが聖書を気仙語に訳すのは、ドイツ語や英語に訳すのと同じで、自分たちが日常使う言葉に訳すという事で、自分たちが直接、聖書の中身を理解できるためです。それが日本語では標準語、しかも教会用語になっているので分かりづらいから、もっと自分たちに分かり易い気仙語に訳す努力をされたのです。私たち九州の人間には気仙語は分かり難いです。では、九州弁、博多弁にすれば分かり易いかと言えば、そうとも限りません。ポイントは、聖書の言葉と私たちの日常との接点を求める事でしょう。ラテン語やギリシア語の聖書を見ても全く分かりません。でも、日本語なら分かるとは限りません。

 

 

 

 1549年にザビエルが日本に来ましたが、ラテン語の聖書や解説書をたくさん持って来たそうです。聖書の日本語訳は宣教師によって個人的に始められました。1563年にはジョアン・フェルナンデス修道士によって、四福音書の全訳が完成したと言われていますが。残念ながら、平戸の近くの度島タクシマの火災で焼失して残っていません。明治5年と6年(1872,3年)にヘボン訳が出来ます。ローマ字のヘボン式が在りますが、ヘボンとはヘップバーンの事です。それから、文語訳が出来、その後、口語訳や個人訳(塚本虎二訳など)、キリスト新聞社訳、現在では、聖書協会以外にも、いのちのことば社の改訳聖書、フランシスコ会訳、講談社からは、昔、西南で教えられたギャロット訳も在ります。翻訳の歴史の話は尽きませんので、今日のポイントに進みたいと思います。

 

 

 

 今日は「信仰」という言葉に注目したい。「信じて仰ぐ」、この言葉は他の宗教でも使われています。仏様、神道の神、キリスト教の神、イエス・キリストも高い所に居られると信じられて、私たちは顔を上げて、つまり「仰ぐ」態度を表しています。キリスト教会でもこれまでの大きな流れです。その流れで申しますと、私たちの罪の贖いの為に、イエス・キリストは十字架の上で死に、そして復活されて、天に昇られて、私たちを見守って下さる。そのイエス・キリストを私たちの「救い主」として、信じ仰ぐ、これが私たちの信仰だと言われて来ました。そして私たちの信仰を聖なるものに高めて、天の国を目指す、これが正統的な信仰とされて来ました。しかし同時に、福音書を見ますと、イエス・キリストは「仕えられるためではなく、仕えるために来たのだ」と言われています。(マタイ20:28など)私たちが生きている、その私たちに仕えて下さるのです。そのイエス・キリストに対して私たちはどうすれば良いのでしょうか。

 

 

 

 私たちが毎日をしっかり生きる事だと信じます。そして生きるとは、神を大事にして、同時に、人を大事にして生きることなのです。この生き方も聖なる高みに居られる父・子・聖霊なる神を信じて仰ぐ生き方と並んで、イエス・キリストが示して下さる生き方だと信じます。讃美歌も変わりつつあると思います。新生570の様に、イエスが私と共に日々歩いて下さるという讃美歌も、イエス・キリストへの信仰を表しています。高みに居られるイエスを仰ぎつつ、というよりも、イエス・キリストに信頼して、歩みを起こす、つまり、日々をしっかり生きる事だと信じます。そして生きるとは、神を大事にして、同時に、人を大事にして生きることなのです。この生き方も聖なる高みに居られる父・子・聖霊なる神を信じて仰ぐ生き方と並んで、イエス・キリストが示して下さる生き方だと信じます。讃美歌も変わりつつあると思います。新生570の様に、イエスが私と共に日々歩いて下さるという讃美歌も、イエス・キリストへの信仰を表しています。高みに居られるイエスを仰ぎつつ、というよりも、イエス・キリストに信頼して、歩みを起こす、つまり、日々をしっかり生きる事、これを本田神父の訳は表しています。私たちは生きる時、何を確かな支えとして生きるのでしょうか。知識、学問でしょうか。お金、富、文化的教養でしょうか。ほとんど、何も持っていなくても、命ある事を大事に思い、生きる事の価値を知ることでしょうか。皆さまは、イエス・キリストの何処に魅力を感じられますか。イエス・キリストのどの姿に、誰との出会いに、どんな言葉に、力を感じられますか。命を感じられますか。喜びを感じられますか。神のお心を感じられますか。ご一緒に本田神父の訳を声を出して読みましょう。今までの、新共同訳などの「愛」という教会用語とは少し違う「愛」の意味を、主イエスの言葉の中身の深さを感じて頂けると有り難いです。