「心を奪われて」        2019年4月7日

 

マタイ9:35~38    招きの詞 ルカ18:9~14

 

  皆さま、お早うございます。今朝はGood morning! と言いたい気持ちです。今日から2019年度がスタートするその礼拝が、のぞみ伝道所として、1,300回目の礼拝です。同時にイエス・キリストの受難を意識する日で、それは当然イースターを控えての事です。今年は来週14日から20日(土)までが受難週で、19日金曜日が受難日です。この受難日を英語でGood Friday と言います。どうしてgoodなのでしょうか。これは勿論、イエス・キリストが難儀、艱難を受けた事ですが、ではイエスはどんな困難や難儀に遭われたのでしょうか。イエスの受難は今朝読んで頂いた聖句の場合、イエスはガリラヤの極貧の人々プトーコイを見られて、「深く憐れまれた」、深く心を痛めたという事です。それを今朝は「心を奪われて」という言葉に置き直してみました。心が奪われる程に、イエスはショックを受けた。今まで自分が思っていた事が全部奪われてしまった。ガリラヤの村々町々を回って神の愛を教えておられたのですが、その時、本当に貧しく弱くされた人々に出会ってイエスが「心を奪われてしまって」言葉を失くされたのではないかという気がします。

 

  目の前に居る人々の苦難、艱難、困難、難儀、その苦難を受けた受難だと思います。イエス自身の問題で苦難、難儀が起きたのではなく、人々の弱り果て、打ちひしがれている姿を見て、その人々の苦難、艱難を担われた、それがイエスの受難です。所でガリラヤのプトーコイと呼ばれる極貧の人々は、本来豊かなガリラヤに住みながら何故、極貧なのでしょうか。豊かな土地故に他国の侵略が続き、当時は領主ヘロデが支配していた地域ですが、富と権力を求める人々がその豊かなガリラヤを収奪して来たのです。貧しい人々からも奪い取ったのです。権力を求める人々の犠牲にされて来たのです。非常に大雑把に見ますと、北の方のバビロニア、アッシリアなどの侵略を受けてきた。豊かなガリラヤですから尚更です。イスラエル人、例えばダビデ王はペリシテ人と戦い、何万人殺したとか、とに角権力の座に上り詰めました。その子ソロモンもそれを受け継ぎましたし、周りの連中もただ従属してわけではなかった。ソロモンが没した途端にイスラエルは、北イスラエル王国と南ユダヤ王国に分裂します。

 

 それ程に権力を狙っていた連中が周りに沢山居たわけです。北イスラエルはバビロンなどにより早くも消滅し、その滅んだ所に位置するのがガリラヤです。エルサレムの辺りはユダヤ王国としてもう少し長く残ります。富と権力を求める力がそこに渦巻いていたでしょう。その時代の頂点に立つのはローマ皇帝です。その権力体制が築かれています。現代も同じだという気がします。愛を説くキリスト教が一番大きな宗教であるヨーロッパやアメリカから奪われていったアフリカ、東南アジア、南米、中国などの支配された歴史があります。そして欧米は栄えました。しかも世界を包む大戦争を2度も起こし、戦後もたくさんの戦争が今も継続中です。その中で奪われた世界が在り人々が居ます。

 

 イエスが人々の難儀を受けられたのは、何も2千年前の事だけではありません。今の世界で尚、イエスは貧しく小さくされている人々の難儀、困難、艱難を受けておられる、今も受難の只中に居られると思います。今の世界状況をあれこれとここで私が述べる必要も在りませんが、目につき難い、例えば母子家庭の困難、子ども達の困難など数え切れないほど在ります。いま2030年問題と言われる問題が日本に在ります。超高齢社会になり、働き手が半分以下になって、社会を支えられなくなる時の問題です。更に私は30年後の2050年問題の警鐘を鳴らす人に注目しています。これは投資家として有名な人ですが、今から30年すると日本は非常に危ない国になると予言しています。アメリカ人のジム・ロジャーズ氏ですが、彼はシンガポールに住んでいます。アメリカ脱出です。日本の問題は国も地方も膨大な借金を抱えている問題、巨額の国債などの問題です。今後これが更に急速に膨れ上がり日本が社会的に危険な国になると見ています。

 

 歴史は繰り返すとよく言われますが、「歴史は韻を踏んで繰り返す」と彼は言います。詩の行の終わりが韻を踏む、脚韻といいますが、例えば、skyスカイとhighハイが「アイ」という同じ韻を踏んでいる事を指します。つまり全く同じ事では無く、似た様な事が起ると言うのです。今の状況やこれからの事は必ず過去に似たような事が在ったのだという事です。だから過去を学んでこれからの危機をどうしたら良いかを考えなければならないと警告を発しています。こんな話ばかりでは礼拝の説教にはなりませんが、格差の問題や非正規社員としてか働けない若者だけではなく、多くの中高年の人々の問題などいま考えなければならない問題が多くあります。大きな問題ばかりでは個人としてはどうしようも在りませんが、個人としていま自分は何を望み、何をしようとしているのかを問う事も大事です。まだ判決は出ていませんが、ゴーン前会長の桁外れの報酬や富の問題です。非正規社員を使ってコストを下げ、会社は儲ける事に必死で、多くの人が株の乱高下に一喜一憂しています。資本主義がいま崩壊寸前の様な気がしますが、次はどうなるのでしょうか。そんな中で私は何をしなければならないのか、何をしたら良いのか。本当に難しいです。

 

 こののぞみ伝道所が来月教会になりますが、2050年に存続しているでしょうか。私はもう存在しませんが、この教会はぜひ存続してイエスの福音を宣べ伝えていて欲しいです。イエスを讃美し、お互いを支え合い祈り合う様な群れはどうしても必要だと信じます。世の中がどんなに荒れても、小さな群れであっても、お互いに悩みを分かち合い助け合い祈り合う群れは大事だと信じます。その様な群れの存在は益々必要になると思います。社会が荒れて誰を信じて良いか分からなくなっても、だからこそお互いを信頼できる、私たちの状況を分かって下さる主イエスを中心とした群れはぜひ必要です。何としてもそんな群れを継続して行きたいです。その事に対して私が出来る事は僅かな事でしか在りませんが、その様な群れの大事さを皆さまに訴えたいです。安易な神頼みはそう簡単には実現しない事は歴史が証明しています。しかしまた個人的に努力して困難や艱難を潜り抜けられた方々もたくさんおられます。

 

 避けようとしても大きな苦難は降りかかって来ます。個人としてここまで苦難と戦って来られた方が此処にも居られると思います。そんな中で単なる神頼みはそう簡単には通じませんが、イエス・キリストは逆に人々の苦難の只中に身を置いて、その状況に心を奪われ、人々の苦難を共に受けて下さる、その様な仕方で私たちを支え導き、私たちに仕えて下さいましたし、今も仕えて居て下さいます。これが主イエス・キリストの福音だと信じます。お互いに苦難・艱難・困難を担い合おうとする群れをイエスは受けて導いて下さり、その中心に居て下さいます。これが主イエス・キリストに従って生きる事です。私達お互いを大事にして下さるイエス・キリストを心から感謝致します。イエス・キリストの受難 勿体無い事です。