「パン五つと二匹の魚」   2019年7月28日  

 

 マタイ14:13~21  招きの詞マタイ16:5~12

 

 

 皆さま、お早うございます。暑い中、お変わりございませんか。バイクで走っても暑いです。8月に向けての予報では猛暑が続くそうです。今日の話も福音書からですみません。五千人にパンと魚を分けた記事は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと四福音書に在ります。きな出来事で、多くの人々が驚いたのだと思われます。奇跡物語はマルコに多い感じがしますが、何の為に奇跡を起こされたのか、今まで余り考えて来ませんでした。イエスが神の子で在る証拠を示す、神の子の力を持っている事を示すためになされたと思われます。でもただそれだけの読み方で良いのかなと考えました。パン種と言いますと、神の国をパン種に譬えて教えられました。小さなものが大きくなって人の役に立つ様な働きをするからでしょか。ただ、イエスが言われる「神の国」は「神が治めて下さる事」だと考えられます。五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹にして下さったのです。その後、舟で向こう岸へ渡る時に弟子たちは、パンを忘れたので、「サドカイ人とファリサイ人のパン種に気をつけなさい」と言われたのだと誤解します。それがどんな事なのか、考えてみました。僅かな物でも、それに依って、イエスは大勢の人々に喜びを与えて下さる方ですが、その貧しい人々を其処まで追い詰めたのが誰であったのか、その事を問題にしておられるのだと気がつきました。

 

 

 

 サドカイ派とファリサイ派の人々はその当時、ユダヤ人たちの宗教的なリーダーでした。サドカイ派は神殿との結びつきが強かったのです。当時、ユダヤ人は神殿税を納めなければなりませんでした。さらに神殿にはいろんなものが献げられました。ですから神殿に関わる人々はとても潤っていました。遠くから参拝に来る人々の交通手段、宿泊その他たくさんのお金や物が動きます。祭司たちとうまく繋がって大きな富に与っていたのがサドカイ派でした。しかしこのグループは長く続きません。紀元前2世紀頃にエルサレムの神殿に現われて、紀元66年から70年のユダヤ戦争で神殿が崩壊して、直ぐにこのサドカイ派は消滅しました。他方、ファリサイ派は律法を大事にしていましたが、中間層でしたので、本来はサドカイ派とは仲が良くなかったのです。しかし、イエスに対しては共同できたのです。イエスが「神と富に仕える事は出来ない」と言われた事はサドカイ派にはカチンと来るわけです。律法を重んじたファリサイ派ですが、神殿の様に見えるものを頼りにしていませんので、エルサレム陥落後、ユダヤ人は領土を持たない民として全世界に散らされた時のユダヤ人を支えたのが律法だったのです。

 

 

 

 律法学者たちはその後も存続します。現代イスラエルのユダヤ教もこのファリサイ派や律法主義の流れだそうです。ところがイエスは、弟子たちが安息日に麦畑の側を通る時に麦の穂を摘んで食べても何も言わない。サドカイ派やファリサイ派は貧しい人々が神殿に来ない神殿税を払わない、献げものをしない、律法を厳格に守らないなど言って、その人々を罪人だと決めつけて、社会から排除しました。そこでイエスとは厳しく対立したわけです。そこの所に気をつけるようにと弟子たちに注意したのだと思います。サドカイ派も神殿が在ればこそ、自分たちの立場が維持できるわけですし、律法主義者も律法が在ればこそですから、ローマから潰されない様に気を付けているわけです。表向きは外の強大な権力には弱い立場で在りながら、内に向かっては強力に縛っていました。両者とも自分たちの力を出来るだけ長く保持しようとしたでしょうが、それでもやはり遂に崩されてしまいます。

 

 

 

 現代も、どこかの強力な国に頼って、自分の利益を守ろうとする国々が在りますが、つまり「虎の威を借りて」力を維持しようとしている姿は同じに見えます。歴史を見ると何が大事なのかと考えざるを得ません。イエスが伝える「神が治めて下さる中」では、五つのパンと二匹の魚で五千人を満たすという事に対して、この様な貧しい人々を作り出し、自分たちは豊かに生きている勢力に対して、イエスは「気をつけなさい」と弟子たちに促したのです。宗教的な理由も大きかったのですが、当時の政治的な動きを含めて「気をつけなさい」と言われた気がします。私たちも、国の政治も地方の政治も含めて、また教会も、何に向かって一つの群れを作ろうとしているのか、この小さな群れののぞみもお互いを大事にし、支え合うと言いながら、本当はどうなのか、気を付けなさいとイエスから問われているのではないでしょうか。例えばサドカイ派なら教会をきれいにする金をたくさん集めて立派にする事でしょうか。或は、律法主義なら立派な信仰生活、ちゃんと聖書を読み礼拝を守りお祈りも欠かさない様な生き方でしょうか。そんな事がキリスト教で大事な事だと思ってしまっていないかを今日は考えたいのです。それぞれの生き方が大事でのぞみ教会が潰れてしまうという事では決してないのですが、何を大事にするのかです。お互いを思いあう、直ぐに力になれなくても、誰かのために祈る、共に祈って少しでも実行していく事などがここにもし無くなってしまうならば、自分だけを良しとする教会、信者になってしまうのではないでしょうか。

 

 

 

 イエスがサドカイ派やファリサイ派のパン種に気をつけるようにと言われた事は、今の私たちの教会生活と無縁ではなく、今の場面で私たちが何に気をつけなければならないのか、考えるべきです。何を目指して私たちはここに集っているのか、しっかり考えたいと願います。共に謙虚な気持ちで教え合いたい、と願います。説教者の態度としても問題ですね。説教という言葉を長く使ってきましたが、説いて教えるのが説教です。上からのものを、皆様に詳しく解説して教えるという態度ですね。のぞみはそれを、奨めて励ます、奨励と呼んでいます。京都の教団同志社教会でも「奨励」と言っています。少し前のですが、その奨励の内容を手に入れました。語られている事が丁寧です。私自身が気を付けなければなりません。私が語っていながら、何も変わらなければ駄目だと思います。こののぞみ教会で何を大事にするか、お互いに語り合って参りたいと願います。私の奨励の話も含めて、皆さまと共に聖書を読む、共に理解を深める、牧師が一方的に、説いて教えるのでは、ファリサイ派と同じでと信じます。

 

 

 

五つのパンと二匹の魚の話が、単なる奇跡物語ではなくて、そこに含まれているイエスの教えを共に分かち合って理解したいと願います。のぞみ教会の群れが何を大事にしているか、共に気を付けるべき

 

か、主イエス・キリスト どうぞこの群れをお導き下さい。アーメン