「イエスの命がこの体に現れるために」  

                 2020年年7月26日

 

 第二コリント4:8~15  招きの詞 ヨハネ6:34~40

 

 

 

 皆さま、お早うございます。福岡市でも連日30人以上が発症しています。久山コロニー街頭募金も、辺野古基地建設反対のゴスペル活動も中止です。ここでも気をつけなければいけません。買い物など外出される際には気をつけましょう。

 

 

 

 今朝はイエス・キリストの十字架の死についてお話したいと思います。芳野さんも松井さんも一体どうして、イエスは十字架に架けられたのかと疑問に思っておられるかもしれません。そこで第二コリント4:8~15を選びました。ご一緒にもう一度読んで見ましょう。329ページです。(朗読 省略)この中で幾つかの説明をします。10節「わたしたちは、いつもイエスの死をからだにまとっています」という言葉も、「死をまとう」なんて何か気持ち悪いですよね。パウロはイエスの「死」を、殆ど、「死」、「死ぬ」という言葉を使っていますが、例外が二つ在ります。その一つがここの「死」ですが、青野先生は、ここを「殺害」と訳しています。次の11節の「わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために「死」にさらされています」の「死」は当に「死」という言葉で、10節の「死」とは違う言葉です。

 

 

 

 もう一か所は、第一テサロニケ2:15「ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺した」という箇所です。他の箇所では「イエスは死んだ」と書いていて、逆にマルコは全てを、「イエスは殺された」と書いていると思います。この10節の「イエスの死をからだにまとっている」を、青野先生は「イエスの殺害を負って(歩き)まわっている」と訳しています。11節の「わたしたちは、~~絶えずイエスのために死にさらされている」の言葉も非常に怖く感じます。この「イエスのために」も、分かるようで、す~っと読んでしまいますが、考えますと、「イエスの為に」私たちが死にさらされる必要が在るのでしょうか。それが「イエスの為に」なるのでしょうか。この言葉も訳し難い言葉で、青野先生は「イエスのゆえに」と訳しています。「ために」も「ゆえに」のどちらにも訳せますが、私たちが死にさらされる事が、「イエスに役立つ」のでしょうか。多くの英語訳が、「~~の為に」、例えば、「健康の為に」と使われる訳語になっているので、新共同訳もこの訳にしたのではないかと思います。ここは青野訳に従って、「イエスが原因で」とよめる「イエスのゆえに」が正しいと思います。

 

 

 

 つまり、「イエスが十字架上で殺されたので、私たちも死(の危険)にさらされている」と読むべきだと思います。「死の危険にさらされる」、これは、キリスト者への弾圧、迫害を指していると思われます。ローマ皇帝による迫害は紀元64年の皇帝ネロに依るものが大きかったのですが、この第二コリント書は紀元54頃に書かれたとされています。ローマによる迫害はまだだったとも思われますが、実は、その前の迫害はユダヤ人、ユダヤ教に依るものでした。パウロが第二次伝道旅行で、テサロニケに行きますが、ユダヤ人キリスト者による迫害が激しかったので、アテネ経由でコリントに逃れました。そして何よりもパウロ自身が回心前には、激しく迫害して回っていたのです。「さて、サウロは(パウロは回心前はそう呼ばれていました)なおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで~~」と使徒言行録9:1に在ります。キリスト者は絶えず死の危険にさらされていたのです。この言葉は、私たちには当てはまらないのでしょうか。

 

 

 

 江戸時代の耶蘇教弾圧・迫害と違って、現在はキリスト教を棄てないと殺される事は在りません。しかし、非常に近い日本の歴史を振り返っても見られます。わずか70数年前の戦時中の事です。75を過ぎた方は戦争の事を少しは覚えておられるでしょう。思想統制がなされて、天皇とイエス・キリストとはどちらが本当の神かとか、いろんな検閲や迫害が在りました。死に至った人も居たでしょう。ホンの70年程前に、この日本で起こったのです。今、世界を見て下さい。テロが起こっています。イスラム教徒はキリスト教を、或は西洋世界を標的にしています。クリスチャンで在れば、イエスのせいで命の危険が今も起こっているのです。日本では見かけませんが、世界では起こっています。

 

 

 

 更に日本でも、戦争に向かうのか、憲法改定が言われ、天皇制の事など議論されます。そしてすでに自衛隊は今年、世界で5番目のパワーです。平和憲法なのにです。隣の韓国は、次の朝鮮戦争がいつ起こるか分からないので、強力な軍隊を持っていますが、その韓国よりも強力だと世界は判断しています。イエスの故に私たちは命の危険にさらされる事は無いと言える状況でしょうか。先週お話しましたが、「あなたの道を主にゆだねる」事は、隣り人の安全平和も主に委ねなければならないのです。自分の事だけでは在りません。世界の危険な状況の中に居る人々の事を、イエスを信じるが故に私たちは考え祈らなければなりません。こんな大きな状況を私たちが変える事はできません。勿論です。じゃ、どうするのでしょうか。祈りに覚えることは必要で大事です。

 

 

 

 そこで私がいつも勇気付けられる人は、やはり中村哲先生です。あのアフガンの只中で、米軍のヘリや飛行機が頭上を飛んで、爆弾を落とす只中で、先生はコツコツと水路を掘って砂漠を緑の農地に変えました。どこか違う方向を信じて闘い努力されました。カンカン照りの砂漠の中で、用水路を掘る事の想像は出来ないですね。水が全くない砂漠の大地をコツコツ掘って行くしかない。その努力の先に本当に希望が在るのかどうか。それはその努力を果たした向こうにしかないのです。人間的な意味での希望は、そんなに簡単な事では在りませんね。その現場の絶望感に耐えられたからこそ、大きな事業を先生はなさったのです。この作業の先に希望が在るかどうか分からない、そんな絶望感に耐えてコツコツ掘り抜かれたのです。そしてその志は、受け継がれています。亡くなられた後も続いて行く命を、先生は頂いて居られたと信じます。

 

 

 

 この死ぬべき体にイエスの命が現れるのです。中村先生も殺されました。でも先生が目指したことは、尚、生きています。イエス・キリストが当にそうなのです。11節では、私たちが生きている間、絶えずイエスのゆえに死にさらされているのは、死ぬはずのこの体にイエスの復活の命が現れるためなのです。イエスの命とは、イエスの復活の命です。その命をこの体で、感じる、見る、受ける事が出来るためなのです。一滴の水も無い砂漠をコツコツと掘り抜いた中村先生の勇気、そして信仰、その勇気と信仰を私も頂きたい。それはイエスの復活の命です。どんな状況に在っても、イエスが共に居られて、その復活の命を、この死ぬべき体に注いで下さるためなのです。

 

 

 

 イエスは何の為に十字架に架けられたのか、様々議論が在りますが、イエスが十字架上で殺害された故に、私たちに命の危険が迫るけど、イエスの死を超えた命が、私たちの体に現れる。カンカン照りの只中で、命を懸けて水路を掘り抜いた中村先生と共に居て下さった。中村先生の死を超えて、先生の志は生き続けています。イエスの復活の命が、中村先生に現れたのです。私たちにもそのイエスの復活の命が注がれています。イエス・キリスト 感謝 アーメン