「旅するイエス」           2019年3月17日       

 

マルコ2:13~17  招きの詞マルコ7:24~30

 

 

 皆さま、お早うございます。今朝はこんな題にしましたが、「旅する」と言えば新約ではパウロですよね。地中海世界を何度も伝道旅行して危ない目に遭っています。佐藤研さんは「旅するパウロ」という本を書いています。イエスもやはり旅をしている事はご存知ですよね。イエスの旅は何の為の旅だったのだろうかと考えてみました。旅された場所の地形の事をあまり考えていませんでした。もう一つは弟子たちに、無一物で旅するように言われたのですから、ご自身も無一物で旅されたと思います。それが何を意味するのでしょうか。先ずは地理、地形について調べてみました。聖書の巻末地図6をご覧ください。ガリラヤ湖が在り、地中海に面してフェニキアがあり、その北にティルスやシドンが在ります。その町はガリラヤからそれ程遠くない距離です。以外に近いと思われるでしょうが、この辺りはとんでもない地形なのです。こんな地図を書きました。

 

     (地図を省略)

 

 

ガリラヤ湖の北側にはゴラン高原が在ります。平均の高さが600mですが、このガリラヤ湖が海面下200m以上深い所に在ります。そこから登るのですから高低差は800m以上あります。このゴラン高原の北の方にヘルモン山(2,814m)があり、その麓にフィリポ・カイザリヤの町が在ります。ティルスの方に行くのも実は、山また山の地形です。レバノン山脈、アンティレバノン山脈があり、その二つに挟まれてベッカー高原が在ります。カファルナウムからは先ず上りでしょうが、ティルスは海辺の港町ですから、かなり下ります。登山では登るのも大変ですが、降るのも大変なのです。足や膝を壊すのは降りの時が多いそうです。イエスはこんな凄い高低差のある所を越えて旅をされたのです。巻末地図ではこんな事が分かりません。

 

 

 

 昔の事ですから、くねくねした細い山道を登ったり降ったり、大変な旅だったでしょう。多分ロバに乗る事もなかったでしょう。山賊や強盗なども居たでしょう。イエスがそんな連中に遭った話は全く書かれていません。パウロは山賊にやられた話もあります。パウロの場合は、一人ではなかったでしょうが、2~3人、多くても5人だったのではないでしょうか。これに対してイエスの場合は、12弟子の他にも多くの人たちが付いて行った場面も多かったと思います。20~30人位は少なくとも居たでしょう。山賊もそう簡単には手が出せなかったかも知れません。ともかくイエスの旅もとんでもない程にきつい旅だった事でしょう。苦難を越えて人々を訪ねた旅でした。

 

 

 

 その旅の目的が何だったのか。遠くにいる弱く小さくされた人々を励ますための旅だったと思いますが、もう少し考えると、イエスは弟子たちに袋も財布も替えの上着も、何も持って行くなと言われましたが、それは一体どういう事なのでしょうか。私の恩師の猪城博之先生から教わった事ですが、(実は明日が先生の3年目の御命日です)「食べる、旅する」の元の言葉は「給わる」だそうです。ですから食べる前に「頂きます」と言います。昔の旅の道中では、多くの人々お世話にならなければなりませんでした。それが如何に大事な事か分かる。だから昔は「可愛い子には旅をさせよ」と教えたのです。旅をして、食べるし、人のお世話を給わって人の大事さを学んだ、こう猪城先生から教えて頂きました。イエスが出会った人々はガリラヤの人々だけではなく、シリア・フェニキアの女性などユダヤ人ではない人々とも出会っています。つまり「プトーコイ」(極貧の人々)に出会われたわけです。その人々の姿を見て、イエスは腹が痛くなったりしました。ですから、旅をして給わるのですが、その様な極貧の人々から、食べ物などを頂くわけです。お世話になるわけです。殆ど何も持たない様な人から頂く、こう考えますとイエスは本当に人々を励ましたのだろうかとも思われますが、だからこそイエスは弟子たちに何も持って行くなと言われたのではないでしょうか。

 

 

 

 相手が貧しい人々で在れば、お世話になる者は更に低くならなければなりません。低くなる事で恵み、親切を受ける事が出来る。あから、何も持たないで出かけて、そこでお世話になりなさいと弟子たちに言われたのです。時には徴税人との出会いも在りましたから、金持ちの所にも行かれました。しかし今回私が気が付いた事は、苦難に満ちた旅をして、非常に貧しい人々を訪ねて、病人たち、或は罪人たちを訪ねて、励まし力付ける事だけではなかったという事です。むしろイエス自身がその様な貧しい人や罪人や病人たちよりも、低くなられた、そしてその人々のお世話になり、何かを頂いたのです。そんな旅だったのだと思います。極貧の人々から頂く、給わる、この事にイエス独特の意味を感じていたのだと思います。貧しい人々を励ます、その励まし方、どうやったらその人々を励ます事が出来るか、それは上から何かを与え、励ますだけでは決してないと思われます。イエスの場合は、貧しい人々、罪人と呼ばれる人々、病人たち、この様な人々よりも低くなって、相手を受ける事が在ったのです。

 

 

 

 先日、全ての人を照らす真の光が在って、世に来たという言葉から受けた事を話しましたが、全ての人を照らす、その照らし方、普通は上から照らすイメージだと思います。太陽の光がそうです。上からの光を感じますが、イエスの場合、貧しい人々よりも低くなって、受けられた、その様な「人を照らす真の光の照らし方」であったのではないでしょうか。こんな照らし方はあまり無いでしょう。イエスの旅は極貧の人々よりも低くなって、その方々のお世話になる、その様な仕方で、極貧の人々を励まし、力付け、希望を与える、その様な旅だったのだと、今受けさせて頂いています。   イエス・キリストの低さに感謝 アーメン