「ペトロの働き」         2019年9月8日 

 

     マルコ14:27~31  

        招きの詞 使徒言行録3:1~10

 

 

 

 皆さま、お早うございます。残暑が厳しくて私も力が出ない感じなのですが、皆様に力が出て来る様な良いニュースをお伝えします。バプテスト連盟の松藤先生から金曜日の夕方、メールが在って、今年の連盟の総会議題に、のぞみ教会の連盟加盟申請を理事会が推薦するという知らせです。総会に出来るだけたくさんのぞみから参加する事を希望するとの事です。

 

 

 

 パウロを学び始めていますが、今回、ふと大事な人を忘れてはいないかなと思ったのです。原始キリスト教会がとんでもないスピードで拡がって行ったのが何故だろうと、今回も改めて思ったのです。パウロが迫害のためにダマスコへ行く途中で、回心の出来事が起ったのですが、それが紀元34~35年の出来事だとされています。イエスの十字架の死は紀元33年とされています。たった1年から2年ほどで、ダマスコというエルサレムからは遠方の異邦人の地に、既に多くのキリスト者が居た事になります。エルサレムやガリラヤに居る事は分かりますが、パウロが伝道旅行の出発点にしたのがアンティオキ教会ですが、ここもユダヤ人世界よりも北の方にある大都会です。どうしてこんなに早く拡がったのだろうかと思っていました。今回、その力がペトロに依るのだと、やっと気がついたのです。原始キリスト教会の様子は使徒言行録の初めから記録されています。

 

 

 

 ペトロの名は、皆さまご存知の通りギリシア語で「岩」という意味です。英語で石油の事をペトロリュームと言います。彼のヘブライ語の名前はシモンで、イエスがよく「シモン・ペトロ」と呼んで居られます。それから皆さまよくご存じの「ケファ」(以前は「ケパ」)はヘブライ語のガリラヤ方言のアラム語で「石」や「岩のかけら」の意味です。固い人物のようなペトロですが、イエスとの出会いは四つの福音書に出ています。マルコとマタイアは殆ど変わりませんし、ルカでは5章に在りますが、漁師ペトロが一晩中、漁をしていたけど何も取れない時に、イエスがこちらに網を降ろしてみなさいと言われて、降ろすと網が破けそうになるほどたくさん取れて、ペトロが驚いてイエスに従う決心をした話が在ります。

 

 

 

 実はルカ福音書を書いたルカが使徒言行録を書いたとされています。使徒言行録の1章1節に書かれています。ヨハネが一番詳しく、出会いを書いていますが、復活後の出会いもまた、詳しく書いています。ペトロが漁師に戻っていた所にイエスが現われて、ぺトロは裸だったので上着を着て海に飛び込んでイエスの下に来る話があります。三度もイエスを知らないと言って、イエスを裏切った話は有名ですが、それだけイエスの死は深く心に突き刺さっていたのでしょう。イエスが「ペトロよ、君は私を愛しているか」と三度も尋ねられ、「私の羊を養いなさい」と三度言われて、漁師に戻っていたのですが再び網を置いて、イエスの使徒として働き始めます。裏切り者の自分に、イエスに従うキリスト者を養うようにと言われる、イエスの愛の大きさ、心の深さに動かされたのだと思います。兎に角、ペトロが原始キリスト教会の初めから一生懸命に働いた事が記録されています。足の不自由な男を癒したり、4章では議会で取り調べを受けたり、それ位ペトロには影響力が在ったのでしょう。ペトロに対する迫害もまた大きかったと思います。

 

 

 

 8章ではペトロとヨハネがサマリヤの地で福音を語って、エルサレムに戻ったと記されています。9章、10章辺りから、エルサレムを離れて活動し、9:36からヤッハでタビタという男を生き返らせる話が書かれています。10章24節に「カイサリアに到着した」と在ります。地図の6に出て来ます。ずっと北の方にフィリポ・カイサリアと出ています。ダマスコへ行く途中の様な場所です。こんな所までも旅しているのです。11章でもう一度エルサレムに上る話が在ります。また、ステファノ事件をきっかけに、多くのユダヤ人が散らされた話が、11章19節以下に出て来ます。その事を逆に言いますと、使徒言行録2章で、聖霊が五旬節の日にキリスト者たちの上に降る話が在りますが、そこに「天下のあらゆる国から帰って来たユダヤ人」の話が在ります。(3節)この人々はまた、夫々の国帰って行ったのではないでしょうか。それもイエスの福音が急速に地中海世界に拡がった一因ではないかと思います。

 

 

 

 この様にエルサレム、ガリラヤだけで福音が広まったのではなくて、迫害を逃れたりして、地中海世界に急速に拡がったと思われます。そんな中でパウロが迫害に出かけて行くのですが、その迫害が一因となって、キリスト信徒が各地に拡がったのも確かだと思われます。再度、ペトロの事を調べますと、言行録の15章に「エルサレムの使徒会議」の話が出て来ます。ペトロが立って語ります。「わたしたちは、イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人にも同じです」。(11節)ペトロは、イエスの福音は異邦人にも同じ様に伝えられるべきだという気持ちでした。しかし、言行録の中から、ペトロ自身の話が次第に消えて行きます。使徒会議でヤコブが出て来ます。(13節)このヤコブはイエスの弟ヤコブです。この頃からエルサレム教会で、主導権争いと言いますか、いろいろな問題が出て来てるようです。イエスの肉親のヤコブが頭角を現し始めています。

 

 

 

元々、ユダヤ世界は氏族意識が強い所でした。イエスをダビデの子孫と言い、父ヨセフの家系図をマタイ福音書の冒頭にずらずらと書いています。ヤコブの発言力が大きくなった半面、ペトロの力が落ちたのかも知れません。エルサレム教会からペトロは離れて行きます。追い出されたわけではないでしょうが、ペトロはメインの舞台から降りて行きます。地方を旅する様になったのでしょう。ヤッハ、とかカイサリアにも行きます。その後の足取りが聖書の中では辿れません。良く調べて見ますと、パウロの手紙の中に2か所に出て来ます。一つはコリント第一の9:5「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか」とパウロが書いています。このケファはペトロの事でしょう。もう一か所はガラテヤ書2:11以下で「パウロ、ペトロを非難する」と出て来ます。「ケファがアンティオキア教会に来たとき」と在って、「ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人を食事を共にしていたのに」その人々を恐れて身を引こうとしたのでパウロが避難した事が出て来ます。

 

 

 

ペトロの名前は聖書の中ではこれ以降よく分かりません。キリスト教には聖書以外にも「外典」というものが在って、特にカトリック教会では聖書以外の言い伝えや記録を大事にしています。その中に、ペトロはローマに伝道に来ていたのに、迫害が酷くなってローマから逃げ出す話が在って、ペトロがアッピア街道を逃げる途中、主イエスが反対側からローマに向かって来られるのに出会うのです。そこでペトロが「主よ、どちらへ」(ドミネ、クウオヴァディス)と尋ねると、「あなたがわたしの民を見捨てるなら、わたしはもう一度、十字架に架けられるためにローマへ行く」とイエスが言ったので、それでペトロも殉教を覚悟してローマに戻り、十字架に架けられる時に、イエスと同じでは申し訳ないと、逆さに磔になったという言い伝えが在るそうです。

 

 

 

鶏が二度鳴く前に、三度イエスを知らないと言ったペトロですが、それが深く心に突き刺さっていたからでしょうか、それともイエスから「わたしの羊を養いなさい」と三度言われたからでしょうか、「私を愛するか」と三度も聞かれたからでしょうか、最後まで主イエスを信じ抜くと言いますか、最後までイエスを主として従い抜いたと言いますか、この様に言い伝えられています。その意味では、パウロに何ら遜色のない信仰を貫いて生きたのだと思われます。ローマで逆さ磔にされたのですから、ペトロの墓はローマに残っていたので、そう言い伝えられていた場所に、カトリックの大本山、サンピエトロ大聖堂が建てられたそうです。

 

 

 

わたしたちはカトリックでは在りませんので、逆さ磔とかの事までを信じる必要は在りませんが、福音を伝道する、福音に生きる、この意味ではペトロ、私たちにはペテロが馴染んでいますが、シモン、或はケファを忘れる事は出来ないですし、今回、私もペトロの信仰・生き方をしっかり心に留めなければならないと思えました。先週はパウロがテサロニケの信徒たちに深く感動した事を覚えましたが、ペトロもまた、キリストの福音が世界に伝えられるために、命を懸けて伝道したのだと教えられました。私たちがキリストの福音に与れることの根元に、如何に多くの人々が過酷な迫害にも拘わらず信仰を貫いたか、パウロやペトロの働きをしっかりと受け止めたいですし、また、その様に陰で働いて導いて下さったイエス・キリストの恵みに感謝したいと改めて感じさせられました。こののぞみ教会の信仰もお導き下さい。アーメン