「神殿の幕が真っ二つに」    2018年3月25日

 

  

   マルコ15:33~38    招きの詞マタイ24:1~2

 

 皆さま、お早うございます。今福さん、お久しぶりでお元気でしょうか。加藤さんも望君もお元気でご出席頂いた事を心から感謝致します。今週はいわゆる受難週ですが、金曜日にイエスが十字架に架けられた事を覚える週です。母教会の城西教会ではこの金曜日には「聖金曜日礼拝」を夜にされるそうで、他の教会でも予定されている様です。イエスが十字架に架けられた事を「聖」なる事と採るべきか、私として気になります。その前に聖書から離れますが、最近気になる事があります。民主主義がちゃんと働くのだろうかという事です。昔から「奢れる者は久しからず」という言葉が有り、歴史がそれを証明しているのですが、懲りないで次々に奢れる者が現われます。安倍政権もどこか奢りが在ると思いますし、中国の習近平主席も憲法を変えてまで、ずっとその地位に留まる事が出来る様にしましたし、同盟国のアメリカでもトランプ大統領がかなり勝手な事をやっているように見えます。それには中国もEUも対抗措置を取ると言明しています。ひどいのはロシアのプーチン大統領の選挙での不正投票の映像がTVで流れていましたが、問題には出来ないのでしょうね。東南アジアでも対抗勢力を逮捕したり運動できない様にしている国がありますし、エジプトも近くある大統領選挙で同じような事が行われ、同じ考えの者を出馬させて、形の上では民主的な選挙だとしています。

 

 その民主主義を力で、それも宗教の力で支配しテロを起こし、民主主義に争いを仕掛けているのが、イスラム過激派ですね。前はIS国と言いっていましたが、今はISISと書いて「アイシス」と呼ばれています。神の名によって、神の正義を貫くために戦いを起こしています。過激主義ですが英語ではラディカリズムと言います。ラディカルは語源はラディックス(radix)で「根元」の意味ですが、世の中が変わっても自分たちは動かない、抵抗するので過激な事をするようになるのです。それは超原理主義と繋がります。ウルトラ・ファンダメンタリズム(Ultrafundamentalism)と言われると思います。そのISISはパソコンのインターネットを通じて運動を広げています。世界に経済格差が蔓延していますので、貧困地帯の人々に「戦え!」とメッセージを送っています。DVDも使われています。アフリカ、中南米、アジアなどの貧しい国々にカッコ良い姿を見せて兵士を募っています。本当はアフリカも中南米もアジアも自然が豊かで、本来は平和の暮らせる所ですが、経済のグローバライゼーション(地球規模化)によって搾取される構造が定着しています。こんな状況で、民主主義が崩れている様に思われ、大きな問題だと感じています。(猪城先生は、「西洋500年の光と影」という形で西洋の罪深さを説いて居られます。)

 

 それを聖書で見ますと、ガリラヤが同じ状況だったと思われます。前にも話しましたが、ガリラヤをこの近くで考えますと、その背振の山向こうの三瀬地区辺りの様に思います。平野部ではありませんが、高原で穀物なども農産物が良く育つ所です。ですから人口も多かったのですが、戦争や紛争が起るとすぐそこから男たちを連れて行き、また飢饉など起ると人口が急減して平和な生活が続かない所でした。豊かですから昔からバビロニアやアッシリアなどから攻められて長期に占領されて「異邦人のガリラヤ」と呼ばれる様になったのです。イエスはそのガリラヤのナザレからガリラヤ湖の近くに住まわれました。そしてガリラヤの会堂で教え人々を訪ねられました。そしてガリラヤの集まって来る貧しい人々をご覧になって、ハラワタが痛くなるほどの思いになられました。その時のイエスの心境はとても量り知る事は出来ませんが、今朝の週報に井上洋治神父の詩を挟んでいます。〔最後のページに掲載〕これは神父の「南無アッバ」という詩集からです。〔詩を読みます〕イエスの心境を推し量る一つのものです。

 

 イエスの時代、ローマの支配はもちろん強力ですが、その手先が徴税人です。敵の手先ですから罪人と言われて嫌われました。でも神殿宗教が神の名に依って、何か罪を犯したら鳩などの献げものをさせていろんな物を奉納させました。律法学者たちは神の名によって律法を強制しました。共に人々を支配していました。そこから漏れてしまう様な貧しい人々、病人を罪人と呼んで社会から弾き出しました。ガリラヤはエルサレムからは遠いです。歩いて行くには山を越えて行かなければなりません。でもガリラヤまでエルサレムの宗教者たちは目を光らせていました。異邦人の地ガリラヤでイエスという名の男が何かをしているという情報をキャッチしてファリサイ派や律法学者たちが調べに行きます。周辺部の田舎であっても自分たちに逆らう者たちを監視し抑えようとしていました。そして人々に慕われている様子を見ると、自分たちへの反乱分子と見て、何とかイエスを殺そうと相談をします。神の名によって信仰と正義の押し付けが行われていました。貧しい人々を作り出しておいて、罪人呼ばわりしていたのが神殿宗教だったのです。

 

 これに対して私たちも批判は出来ます。でも、信じている多くの人々、神殿にお参りし、献げものをし、律法を大事に守ろうとしていた多くの人々、その様な神様が当然だと信じていた人々の気持ちを、それはおかしいのだと今、批判は出来ます。しかし、その信仰を越える事は至難の業なのです。正しい神様に従う事を憐れみ深い神様を信じる事へ帰る事は至難の業、命懸けの業です。そんな事を起こす者を祭司たちが糾弾するのをマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書記者たちは、裁判の場面を詳細に記録しています。神を汚す者の罪状の下でイエスを殺そうとし、ついにはローマの権力まで利用してイエスを殺そうとします。当にイエスの命を懸けた戦いでした。そして実際にイエスは十字架の上で殺されました。戦って殺されました。でも先ほど読んで頂いた様に、思い掛けない事が起こりました。「イエスは大声を出して息を引き取られた。すると神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」のです。(ソロモンの神殿の内部の図を皆さんに見せます。)外側が400キュビット、1キュビットは肘から指先までの長さで約45センチです。ですから外側は180mになります。その中に神殿が有ります。中に入ると聖所が有り、更にその奥に至聖所が有り、その間を垂れ幕が仕切っているのです。その垂れ幕が真っ二つに裂けたのは、もう至聖所が無くなったという事、神殿の最も大事な部分が崩れた事を意味します。イエスが息を引き取られた瞬間に、この幕が裂けてしまいこの神殿の最も大事な部分が崩されたわけです。人々を支配してきた一番の象徴が崩れた、そこをイエスは崩された、ご自分の命と引き換えに。この事をマタイ、マルコ、ルカの3福音書とも伝えています。

 

 イエスが戦った神殿宗教の一番の所、肝心な所、祭司長たちが尤もらしく畏まっていた所を真っ二つに断ち切って終われたのです。つまり、この先に神が居られるという所が破れて終ったのです。今まで其処に神が居られるとされてきた所、実は神はそんな所には居られないという事が明らかになったのです。其処にしか居られないという事ではない。神は何処にでも居られる、実際は元々そうだったのです。神が正義を以って支配して居られるという虚構が崩れた。神を背にして民を支配し、富を欲しいままにしていた宗教者たちの一番の拠り所が崩されて終ったのです。それに代わってイエスが、憐れみ深い神イエス・キリスト、人に仕えて下さる神イエス・キリスト、私たちの救い主、私たちを導いて下さる神が私たちと共に居て下さる神イエス・キリストとして復活されて、私たちの日常生活の中で、憐れみ深い出来事を起こして下さるのです。 

   イエス・キリストの十字架、イエス・キリストの復活 アーメン