「父のお許しがなければ」        

                2018年6月10日

 

  マタイ10:26~31   招きの詞マタイ13:18~23

 

 

 

 皆さま、お早うございます。大きな事件が多すぎますね。新幹線の中での殺人事件とか思いがけない事件がどこで起るか分かりません。どうしてなのでしょうか。評論家ではありませんが、社会は格差が大きくて、これが解消されなくてますます歪んで行く、歪むという字は不正と書きますね。歪んだ状況ですが、これも神が許されたのでしょうか。一羽の雀も神のお許しがなければ地に落ちる事は無いと、この世の全ての事が神の許しの下に起るという事の様に思えます。そうは思えませんが、こんな難しい聖書の個所を私たちはす~っとすり抜けている様に思えます。それで良いのかなと思います。矛盾に満ちた世の中ですし、聖書の言葉も直ぐには受け入れられない事も書かれています。皆さんは出エジプト記、何千年か前に起った出来事は本当だと思って居られますか。モーセが率いてシナイ半島を40年かかって横断してカナンに到着する苦難物語です。途中で十戒を与えられます。今のイスラエル民族がまとまる基礎が出来た様な大きな出来事ですが、大体の方は事実だと思われるでしょう。しかし、この出来事は事実の事では無いという説も在るのです

 

 

 エジプトを出て紅海に差し掛かった時に、後ろからエジプト軍が迫って来る、前は海で絶体絶命の状況、この事について一寸面白い話が有ります。これはクシュナーというアメリカのユダヤ教のラビが「なぜ私だけが苦しむのか」というヨブ記について書いたものです。一寸読みます。「モーセがイスラエルの民を率いて紅海を渡ったという聖書の記事を教わった子供が、日曜学校から家に帰ってきた時の話です。なにを教わってきたのとたずねる母親に、その子は応えました。『イスラエル人たちがエジプトを脱出しちゃったんで、パロとその軍隊が追っかけたんだ。イスラエル人たちは紅海まで逃げて来たんだけど、海を渡る事が出来なくて、エジプトの軍隊がどんどん近づいてきちゃったの。そこで、モーセは無線機を取り出して救援をたのみ、イスラエル空軍はエジプト軍に爆弾攻撃をしかけ、イスラエル海軍は浮き橋をつくって人が渡れるようにしたんだってさ』。驚いた母親が「紅海の話をそんなふうに教わった」とたずねたところ、その子は、『ちがうよ。でも、習ったとおりに話したら、お母さん、きっと信じないと思うよ』と答えたのだそうです。」

 

 子供自身は信じたのか分かりませんが、ヨブは苦しみましたが、実は神のお許しの下で苦しんだのです。サタンがあれこれ言いますので、それなら試してみろと神が許されたのでヨブは本当に苦しむ事になりました。サタンに神が「お前はどこから来たのか。」と尋ねられました。神はサタンを創られた訳ではないと思いますが、サタンがどこからか来るのです。この世の善、その代表は神でしょう。悪、影が有って、その代表が悪魔とかサタンと聖書では語られていると思います。善と悪、光と影、それがせめぎ合う、人が必ず苦しむ様な中で、イエスが私たちの為に歩んで下さった、その出来事を書いたのがこの新約聖書です。しかしこの新約聖書も一筋縄では行きません。ここでは神は全部ご存知で、髪の毛一本一本まで数えられているというのです。私は「本当かな?」という気になりますが、パウロはそういう事について、ローマ書では「希望をもって喜び、耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(12:12)と言います。苦難は避けようが無いから、希望を持って耐え抜き、そして絶えず祈れと言うのです。苦難は乗り越えるべき神の試練、神からの試練だから必ず希望が有ると言います。第二コリントでは「私は慰めに満たされており、どんな苦難の内に有っても、喜びに満ちあふれている」とも言います。とにかく大きな苦難を乗り越えたのがパウロです。

 

 今朝の一羽の雀の話を皆さんはどのように受け止められますか。その通りだとか、少し違うのではないか、と中々難しい話だと思います。でもこの言葉だけを取り上げますと中々難しいのですが、この言葉をイエスが言われた場面を考えて見たいと思います。マタイの10章ですが、その前の「群衆に同情する」と書かれた所です。イエスは町々、村々を残らず回られて、36節「群衆が飼い主のいない羊のように、弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」この「深く憐れまれた」はよく私が言います様に、ハラワタが突き動かされるような思いをされた、胸が痛む様な思いでも良いでしょう。とにかくイエスはショックを受けられました。そこでイエスは行動を起こされます。その第一が十二人の弟子を選ばれました。イエスお一人ではこの状況では中々大変です。自分と同じように働く十二人を選ばれました。そして「十二人を派遣する」場面です。イエス自身がガリラヤの人々を見て、本当に心を痛められて、何とか励ましの言葉を掛けたい、救いの手を差し伸べたい。しかし自分一人では難しいというお気持ちでしょうか。だから自分の代わりに弟子たちを送り出される場面です。

 

 そしてその次には(16節)「迫害を予告する」とあります。つまり弟子たちが福音を伝えて回って行くのだけど、そこで迫害に遭う、律法学者たちからも攻撃されると言われるのです。「でも、何が起ころうと、神様は君たちの事を全部ご存知なのだよ。だから心配しないで、前に向かって進みなさい。」と励まして送り出す時の言葉なのです。ですから一羽の雀が落ちたのも神が本当に許されたのかどうかよりも、弟子たちをご自分の代わりにお遣わしになる、そして必ずや迫害に起る、だけどその迫害に打ち勝って欲しい、そんな力を持って欲しい、そんなお気持ちから言われた言葉だと思います。「一羽の雀」の話が本当なのかどうかよりも、イエスがなぜ、この様に言われたのか、そして弟子たちはこの言葉を聞いて、どう思ったでしょうか。或は私たちが直接この言葉を聞いたとすれば、どう思われますか。毎日の生活の中で思う様に行かない事がたくさん在る。どうして良いか分からない。そんな中で「ああ~、困ったなあ。」で済むでしょうか。そこに立ち向かう力を持ちなさいと、「私が一緒だよ。父なる神も一緒だよ。君たちが苦難を受ける事を、父なる神も分かっておられるよ。勇気を持って前に進んで行きなさいよ。」という励ましの言葉ではないでしょうか。

 

 私たちが生きるこの世で、様々な予測できない様な事が起こっています。命を取られるかも知れません。でも不安な気持ちで縮んで終うのではなくて勇気を持って進みなさい。これがイエスのメッセージです。苦難や恐れは避けられない。そこに立ち向かう貴方たちの事を父なる神はご存知だよと励まされたのです。そしてご自分もその様に苦難の只中に突き進んで行かれました。それは十字架につながる事でした。でも負けて逃げられなかった。苦難に立ち向かわれた方が私たちの主イエス・キリストです。ご自分の命を懸けて語って下さった言葉だとお受けしたい。一つの言葉の真偽ではありません。イエス・キリスト アーメン 感謝