「自由・平等・悲愛」         2021年2月21日

 

  マルコ10:42~45   招きの詞ヨハネ8:31~38

 

 

 

 皆さま、お早うございます。今朝、ここにお出でになれない方々お一人お一人を覚えたいと思います。コロナ感染症が日本全体、或は世界全体に広がっていますが、この全体に広がっている状況をパンデミックと言います。ワクチン接種が頼みの綱で、既に半分とか4分の1とかの国民に接種が済んだ国も在りますが、ここ数年は出来ないと言われる貧しい地域や国が在ります。経済の格差が在って、皆が平等にとは行かない状況に在ります。私たちの生活もマイナスの影響を強いられている人たちが居られ、仕事も生活も大きく変わらざるを得ません。全体を見ますととてもアンバランスに思えます。ITによってロボットが活躍する、いま、人間の形をしていませんが、手が在り目があるロボットは、自動車の生産工場で働いています。もう一つは、医療の現場で、遠方で撮影されたデータに基づいて、遠くにいる専門家が診断できます。その一方で、私たちの個人は在宅で仕事や遠くに行けないなど制限されています。現代のこの状況は、どうしてこうなったのか、考えてみる必要が在ると思います。私は歴史に詳しくは無いのですが、勝手流に大まかに振り返って見ました。

 

 

 

 先ずは古代世界、チグリス、ユーフラテス文化、それに古代中国、インドなどの世界が在りました。そして古代ギリシア文明が現れます。ギリシアは一つの都市が国、都市国家でしたから、互いによく戦争をしました。お陰で医学が発達しました。それを引きついでローマ帝国が興ります。この両者を合わせてヘレニズム文明とも言います。イエスが登場により生まれたのが、カトリック教会です。主には地中海世界とヨーロッパに広がりますが、大航海時代を経て、中南米や東南アジアなど世界に広がります。それと同時に経済がそれまでとは違って発達します。経済が社会の在り方を変えて行きます。1000年頃までは中世の暗黒時代と言われました。それが段々、経済の状況などが変わって、ルネッサンスが14~15世紀にイタリアで起こります。古代ヘレニズムへの回帰とも言われます。神中心から人間中心に変わり始めたのです。

 

 

 

 その流れから1517年にルターによる宗教改革が起こります。バプテストはイギリスで生まれたとされますが、ヨーロッパ全体に広がります。そして近代という時代になるのですが、そのキッカケは、フランスの哲学者デカルトが、1637年に「自分の存在の根拠を求めて、思考するうちに、思考している事が、自分の存在なのだ」という事に気が付いて、「われ思う、だから、我は存在している」という事を言い出します。つまり、自分という個人が中心になるのです。それまでは、部族、村落共同体の一員として見られていたのです。背景にはやはり経済の変化が在ります。それがフランス革命につながると思います。1789~1799年の10年程の間、18世紀の終わり頃に起こります。この時の合言葉が「自由・平等・博愛」です。一般市民が主権を取り戻したのです。それと重なるようにして、産業革命が起こります。綿織物の製造技術の革新から始まり製鉄業の成長と蒸気機関の発明です。その流れの中で、もう一つの革命が1917年に起こります。ロシア革命です。それまでは「ロシア帝国」という巨大な帝国が在りました。その帝国の末期に日本と戦争した「日露戦争」が在りました。日本国内には殆ど兵士が居ない状況にまでなりましたが、ロシアにとっては、遠方の極東地方の問題で、足元は共産主義革命が迫って帝国の存亡の危機的状況でした。アメリカが日本の国債を買ってくれたりして、何とか講和したのですが、日本は勝った勝ったの提灯行列でした。これで世界の列強の一員になったと錯覚したのです。

 

 

 

 それと時を殆ど同じくして、第一次世界大戦が起り、それが原因とも言える形で第二次世界大戦が起ります。その頃から科学が急速に発達します。原爆が出来、ジェットエンジンが発明され、またペニシリンの派遣や医学の面でも発展します。そして自然科学万能の信仰が生まれ、やがて、「生命」を創り出すとまで幻想を抱きました。そこに「コロナ・ウイルス」が立ちはだかりました。COVID19です。これは現代文明に対する自然世界の大きな「反撃」だという気がします。地球温暖化のせいで、世界各地で大干ばつ、集中豪雨、大きな寒波など、今、自然は荒れています。「サハラ砂漠」も広がりつつありますが、「サハラ」とは「沙漠」の意味ですから、サハラ砂漠は「砂漠沙漠」になります。その他数えきれない程の異常気象や地震その他に翻弄されています。自然から反撃を受けている、その一つがコロナ・ウイルスだと思います。

 

 

 

今よくバーチャルと言いますが、これは「仮想の」という意味で、現実に非常に似ているが、現実ではないものです。これが世界に広がっています。しかし、現実、リアルで在る事が、取り戻されなければならないと思っています。バーチャルでは体に栄養は取り込めません。中村哲先生が大規模な用水路を掘られましたが、バーチャルでは水は一滴も流れません。畑を潤す水を確保するには、大変な作業が必要でした。手間暇が掛る現実をもっと大事にしなければなりません。今の状況の始まりはどこかと考えますと、やはり「近代化」ではないでしょうか。そして近代化とは何かと言えば、ヨーロッパ、アメリカの考え方に、世界が倣う事ではないでしょうか。それが「自由・平等・博愛」の精神・思想です。でも、現実は決してそうではないとはっきりしているのです。すべての人が自由では在りませんし、平等でも在りません。才能には大きな差が在ります。博愛、博く愛すると言いながら、愛は偏っています。歌い文句は立派ですが、陰、闇は益々深く暗くなっています。この様な状況になり、世界が変って来た根元には、経済の問題が在ります。現在は、自由平等を謳い、市場原理主義経済の時代で、その世界です。今や市場原理で動いています。

 

 

 

こんな時代の只中で、私たちは何を頼り、何を大事に生きて行くべきなのか自分の生き方を問わなければなりません。私たちにとっては、聖書を通して、イエス・キリストが大事だと言われた事、そこに辿り着くと思います。自由平等博愛と言いつつ、強い者が勝ち、弱い者は捨てられていく世界や価値観ではなく、弱い者の立場に立って生きるアガペー、主イエスが教え、それに従って生きた価値に従って、私たちは身を以て生きる事が大事です。1世紀の終り頃に書かれた、ヨハネ福音書では、自由とか真理という言葉を使いますが、もっと早くに書かれたマルコ福音書でイエスは、「この世の中で力在る者が権力をふるっている。しかし、あなたがたは仕える者になりなさい。わたしも仕えるために来た」と言いました。人に仕える愛、心は、博愛ではありません。先週紹介した井上洋治神父は「悲愛」と訳しました。これまでヨーロッパのキリスト教の考え方で、私も歩んで来ました。経済も政治も現在は世界がヨーロッパ・アメリカの考え方に倣って動いています。イエスの教えを理解する事に於いて、自由平等博愛路線ではなくて、受け直すべきだと信じます。日本では昔から「相見互い」とか「お互い様」と言ってきました。これがイエスの教えるアガペーなのか、直ぐには分かりませんが、近いものが在ると感じています。

 

 

「人を愛する、大事にする」という時、これまでそれは「私」が「他人」を愛し大事にする事でした。それが中々越えられません。しかし、「私」の権利も自由も全く奪われた、絶望の極限に生きた人は、「自分を越えた何か」、私を生きる事へと促し励ます力、が在る事を体験しています。ユダヤ人の強制収容所を生き抜いたフランクルも一人です。どんなに絶望的になっても、未だ、何かが「生き抜きなさい」と突き上げて来る。その事を私たちは、イエス・キリストから、励まされ促され導かれていると信じます。そのイエスは「私も仕える為に来た」と、低みに立たれています。ですから、この世の低くされている方々を通して、イエスに出会い、低くされた方々を通して、イエスからの命を、希望を、生き抜く力を、頂くのです。イエスご自身が低くされて居るのですから。