「人に仕え、祈る群れとして」     2019年4月28日

 

ヨハネ12:20~26  招きの詞マタイ20:25~28

 

 

 

 皆さま、お早うございます。季節も新緑が美しくなり始めています。季節が変わる中で美しいものを与えて下さる事を感謝します。しかし他方で重い病を患っている方々もおられます。どんな思いで今朝のメッセージをするか、迷う気持ちも在ります。次週はいよいよ教会組織会議を迎える5月です。大事なのはその会議の後、どんな教会で在り続けるのか、これが大事です。お一人お一人、教会とはどんな所なのか、何をするのか、お考えが違うと思います。でもその基本として、私たちを導いて下さる、生きて働いて下さるイエス・キリストが主で在る事に、変わりはないと思います。そのキリストがどの様に私達の所で働いて居られるのか、それぞれが抱えて居られる問題の中で、一つにはまとめ難いと思います。

 

 

 

 でも、主イエスは私たち一人一人を大事にして下さっています。のぞみのホームページの最初に「人を暖かく思いやる事を大事にします」と書いています。本当にその様に出来るのかなとも思いますが、インターネットをされる方は、「のぞみ伝道所」と入力されると、そこへ辿り着きますので、どうぞご覧ください。写真も殆ど無くて、何とも愛嬌のないホームページなんですが、先週の説教やこれからの予定を載せています。とにかく、人を暖かく思いやる事を大事にしたいです。今朝はその事を、イエスが「私があなた方に仕えて居るように、あなた方も互いに仕え合いなさい」と言われた事から、「仕える事」を大事にしたい話です。しかし、誰にどの様に仕えたら良いのか、これも中々難しいです。口では言えるし、分かった気になるのですが、実際に人に仕えて生きる事はそんなに簡単な事ではありません。先ずは、イエス・キリストに仕えると言いますか、イエス・キリストの言葉、お働きに仕える、これが大事なのではないでしょうか。人に仕えるには、私たちキリスト者は、人に仕えて下さったイエスに仕える事を大事にしなければならないと思います。人を大事にして下さるイエスに従って、人を大事にする事です。

 

 

 

 イエスは人々に仕えて下さったのですが、その人々とは、先ずはガリラヤとシリア・フェニキヤ、サマリアなどの貧しくて弱い人々です。人に仕えるとは、人は生きていますから、その生きている事に仕えるわけです。そんなに簡単ではありません。人が動きますし、その立場や状況に仕える事になります。人が生きるには、時の流れがあります。朝が在り、昼、夜が、昨日が在り今日が、そして明日が在る。10年前が在り、これから10年後、と時の流れが在ります。それは時計の時間の流れではなくて、歴史の流れなのです。人々が何をしているかの流れです。それは、国の形や会社の形、教会の形を取りながらの流れなのです。つまり、歴史という事を考えなければなりません。

 

 

 

 一寸話題を変わりますが、武田信玄の事は皆さまよくご存知でしょう。彼も時代の流れ、歴史の中で織田信長や上杉謙信などの強力な勢力が在る中で、自分の領土を守らなければなりません。じゃ、どうやって守るか。あの有名な言葉、「人は城、人は石垣、人は濠、情けは味方、仇は敵なり」と言いました。人に依って守るし、それに依って人を守るわけです。彼は領民に対して配慮在る政策を取りました。いつ攻められるか、状況の流れが在ります。その中で領地を守るには、やはり人が大事だと考えたと思います。歴史が動く中で、どうやって生きていくか、それがこの言葉に現われています。イエスの場合は、人を守ると言う時、その守り方が全く違います。武田信玄は領土、領民を囲む様に守った。でも、イエスは人々を囲い込む様な事はされませんでした。人々に仕える、人々を囲むのではなく、いわば、人々の下に行く、悲しんでいる人は居ないか、苦しんでいる人は居ないか、そんな形で、人々に寄り添う形で、守ったと思います。

 

 

 

そういう中で、神殿宗教者、律法学者たちの反発、反感を買います。遂にはローマ皇帝の権力に依って殺されました。イエスの場合、人に仕えるのは、自分の死に至る迄、人々に仕えられました。つまり、同時に闘って居られたのです。人々を支配し利用している権力に対して闘い抜いたのです。自分の道筋を曲げられなかった。では、私たちも自分の死に至る迄、人々に仕える事が出来るのか、とても所か、全くできません。そんな事を考える事すら出来ません。でも私たちは「人に仕えなさい」とイエスから促されているわけです。では、どうしたら良いのでしょうか。人々に代わって神の言葉に従って生きる事、これも人々に仕えることではないかと考えます。神の言葉に従って生きる、人が生きる流れは、歴史の流れですが、その流れの中で、人々の為に祈る事が、人々と共に生きる事、人の為に生きる事ではないかと考えます。

 

 

 

今度、教会組織会議の後に感謝礼拝をします。その時の説教を年に一度来て下さる福田昌治先生にお願いしました。その福田先生から手紙を頂きましたが、のぞみの信仰告白について、少し気になる事が在ると言われます。私達の信仰告白の中に、「教会と国家」、つまり政教分離の事が在りません。現在は世界中で軍隊が強化されています。日本も防衛予算はドンドン増えています。そうしますとその軍隊を精神的に支える柱として、宗教が利用されかねないです。その事が考えられます。国と宗教の問題です。欧米では「教会と国家」です。これが中々難しいです。政治が宗教を利用する事は在ってはなりません。でも宗教が政治を批判する事は、在り得ると思います。今の多くの教会は政治の事に関わってはいけない、という考えが強いと思います。政治の動きが危険になれば、一人の市民として発言していくべきだと考えます。ですが、逆に宗教が国家権力を利用する事もまた、政教分離に反します。戦争への道を進んでいるのだと危ぶまれる今日の状況です。10年20年後の状況をどう考えるべきでしょうか。

 

 

 

こののぞみの群れは、弱く小さくされた人々の群れで在る事を大事にしたいです。私たちが強くなる事とか、権力と結びつく事では決して在りません。大きくなる事も考えないわけではないでしょうが、決してそれが目的ではありません。これから私たちは何を大事にしていくのか考えなければなりません。イエスが「隣人を愛しなさい」と言われた掟の中で、臨時とは誰か。近くの人、同時に遠くの人でもあります。遠くの大震災の被災者の方々の困難な状況や姿が段々見えなくなっています。表向き、ゼネコンによって大工事は進んでいますが、人々は戻って来て居ませんし、仮設住宅からは出なければならない、知り合いや友人が居ない所で生活しなければならない。高齢化も進んでいます。東北の人々が自分たちの苦しさを大きく発言する事は無いと思います。粘り強く努力を重ねて来た東北の人々です。段々、その困難な状況が見え難くなっています。小学生の貧困の問題もそうです。見え難いのです。

 

 

 

隣人を近くに遠くにと思いながら、隣人を大事にする事は難しいです。しかし、その志を、その気持ち、その信仰を持ち続けたいです。直ぐに出来るとか出来ないとかではなくて、どの方向に歩みながら祈って行くのか、小さな努力を積み重ねる事が問われると思います。大きな権力に対する小さな発言でしかなくても、何か工夫を続けなければなりません。しかしそれは単なる私たちの努力だけでは在りません。復活されたイエスが、ガリラヤという厳しい状況に、先週はそれを「現場」という表現をしましたが、私たちに力を希望を与えるために戻って来て下さった。その限り、私たちは人に仕え、祈る事から逃れる事は出来ません。その様なイエスを、私たちは「主」と仰いでいます。そのイエス・キリストに私たちは励まされ力付けられて、弱く小さくされた人々の為に祈る小さい群れで在り続けたいと願います。主よ、お導き下さい。アーメン