「主は平和を宣言される」    2018年4月29日

  

     詩編85:9~14    招きの詞マタイ12:9~14

  

 皆さま、お早うございます。今朝もよく来て下さいました。感謝です。この頃南北朝鮮の首脳会議が開かれて、平和が訪れる様なムードになっています。実際にはイギリスやフランスの軍艦が沖縄に来て、北朝鮮付近での瀬取りを監視するパトロールのための様です。陰では軍備が強化されています。今年度の主題聖句は「主は平和を宣言される」という詩編です。神様が平和を宣言される事は嬉しい良いことだと安心して良いのでしょうか。平和に関しては難しい問題がたくさんあります。先ずは聖書から考えたいと思います。この詩編85編は誰の歌でしょうか。コラの子の詩と書いて有ります。ダビデの詩はよく見ます。コラという人物を皆さんはご存知無いと思います。私も知りませんでした。実はコラは反逆者なのです。彼の事が民数記に出て来ます。16章の初めから登場します。どうぞ開けて下さい。1節にコラと出て来ます。3節「彼らは徒党を組み、モーセとアロンに逆らって言った。『あなたは分を超えている。共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって、主がその中におられるのに、なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか。』」今度はモーセが言います。6節「次のようにしなさい。コラとその仲間はすべて香炉を用意し、それに炭火を入れ、香をたいて、明日、主の御前に出なさい。そのとき主のお選びになる者が聖なる者なのだ。レビの子らよ、分を超えているのはあなたたちだ。」コラのグループとモーセが率いるグループと主がどちらをお選びになるかと言うわけです。

 

そして23節「主はモーセに仰せになった。『コラ、ダタン、アビラム住まいの周りから離れるよう、共同体に告げなさい。』」そして30節「だが、もし主が新しいことを創始されて、大地が口を開き、彼らと彼らに属するものすべてを呑み込み、彼らが生きたまま陰府に落ちるならば、この者たちが主をないがしろにしたことをあなたたちは知るであろう。こう語り終えるやいなや、彼らの足もとの大地が裂けた。地は口を開き、彼らとコラの仲間たち、その持ち物一切を、家もろとも呑み込んだ。彼らと彼らに属するものはすべて、生きたまま、陰府へ落ち、地がそれを覆った。彼らはこうして会衆の前から滅び去った。」こんな人がコラなのです。全部が滅び去ったと言われていますが、この85編はコラの子の詩ですから、どうかして生き残った者がいたのかもしれません。

 

主は平和を宣言されるのですが、平和、これが自分たちの平和、という事になって平和は力を表し、そして豊かさを表します。みんなが求めるのは貧しい平和ではないのです。平和の裏側には人間の欲望が渦を巻いていると言えそうです。古くから言い慣わされてきましたがPAX ROMANA ローマ帝国の平和です。ローマ帝国が繁栄して豊かであり、その力が全体を支配して平和であることを指します。現代ではPAX AMERICANAで、段々力が落ち来ていると言われながら、やはり支配力を持っています。これに対してPAX RUSSIANAと言えるのでしょか、ちょっとラテン語が分かりません。或はPAX EUROPA、PAX BRITANICA、日本もPAX JAPONICAでしょうか、これを模索しています。さらにはPAX CHINAは何と言うのでしょうか。中国はいま東南アジアでかなり横暴な事をしています。漁船に銃撃したり体当たりしたりして中国の覇権を広げるためです。

  

超富裕層と呼ばれる人々の平和、それこそ力であり豊かさなのです。それを平和と言いながら経済格差を生み出しています。今世界を包んでいる経済は市場原理主義と呼ばれるものです。その中で労働者の働き方改革も進められています。早い話が規制緩和なのです。そんな中で私たちはキリスト者として、してはならない事は何でしょうか。神は平和を宣言される、その実現を妨げているものは何か。イスラムでテロを起こしているのは超原理主義者です。「神は愛である」と言いながら神の愛を実践するのは自分たちだから、神の愛に従わない者は殺しても良いと考えるのです。自爆テロでは「アラーは偉大なり!」と叫んでいるようです。神を信じる、ここが問題、私たちキリスト者にとっても、です。原理主義になってはいけないと思います。「神は愛である」というのは私たちの救いです。しかしそれを、世界を動かす原理だからと、ほかの人々に押し付ける、この様に思い上がる事に、問題が在ると思います。謙遜な思いをどうしたら持つ事が出来るか。

 

いま日本でも議会制民主主義の下に、目茶苦茶な状況になっています。行政と政治家が自分たちの好きな様に動いています。自衛隊も文民統制がどうなりつつあるのか、段々怪しくなる様にも思われます。戦前の軍部の台頭によって大東亜戦争が引き起こされました。結果ものすごい犠牲者が出ました。私たちの日常に於いて問題は何なのでしょうか。キリスト者としての問題は何なのだろうかと考えざるを得ません。世界の大状況などをブツブツ言ってても仕方ありません。神が平和を宣言なさるのは、「彼らが愚かな振る舞いに戻らないように。」と書かれています。この「愚かな振る舞い」とは何でしょうか。キリスト教の歴史を見ましても、「自分たちの信仰は正しい」と主張して、他の宗教と争い、他の宗派と争って来ました。神を信じる人々には「神は愛である」と信じています。その中で恵まれて生きています。でもそれを原理として、私たちが生きている全ての場面で人に押し付ける事をしないように、しなければなりません。先ほど招きの詞で読んで頂きましたが、「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」のです。自分たちの平和を乱す者は抹殺しようとするのです。それでイエスは十字架に付けられました。それは私たちの罪の償いのためで、初めからの計画であったと理解する解釈も有りますが、「自分たちの平和を乱す者は殺す」という様に、出来事の流れからは理解出来ます。十字架に架けられて殺されたイエスを信じています。ですから決して殺す側になってはいけません。神の愛の原理を振り回してはいけません。私たちは神の愛の下に置かれているのであって、私たち自身が神の愛ではありません。ここをしっかり受け止めて、神の愛の恵みの下に、私たちは生かされている事を感謝するのです。神の愛の祝福が隣り人に及びます様に、私たちは大震災で苦しんでいる人々に神の愛が及びます様にと祈る者でなければなりません。

 

私たちは神の愛に包まれている、そこに平和を宣言して下さる、それがこの詩編の言葉です。人が人を殺し合う様な愚かなことに戻らない様に、神は平和を宣言して下さるのです。私たちは人をすことは在りませんが、人を受け入れる事が出来ません。敵を亡き者にするという事を考えてはならないのです。だからイエスが「汝の敵を愛せよ」と言われたのだと思います。でも現実には敵を愛する事が出来ません。でも敵を抹殺する、祭司長や律法学者たちがしたことは、イエスがそれを受けて下さったのですから、私たちが同じような事をしてはならないのです。敵で有って受け入れる事が出来ないかも知れない。でも共に神の愛の下に生かされているという事の中で日々を過ごしなさい、と言われているのだと思います。神の愛、神の正義を私たちが振りかざすことはいけません。私たちはキリストの愛、神の愛の下に生きているのです。先が見えない状況にあっても、神はご自分の命を懸けて私たちを愛していて下さいます。私たちの日々の営みがイエスに導かれる事を祈りながら、遠くの人や近くの人、イエスに共に愛されている人と共に歩むしかありません。この小さな群れで共に励まし合って参りたい。「神は平和を宣言されます。私たちが愚かな振る舞いに戻る事が無いように」  イエス・キリストの愛  アーメン  感謝