「キリストによる解放」      2020年年7月12日

 第二コリント3:12~18  招きの詞ローマ8:18~25

 

 皆さま、お早うございます。東京では過去最高のコロナ感染者が出ていますし、熊本、鹿児島、宮崎の記録的豪雨による被害者は60名を越えています。最近は毎年の梅雨にこうした被害が出ていて、他方世界大干ばつがあり、現代の人類はその在り方のパターンを変える必要が在ると思います。温暖化は収まるどころではないようです。石油の消費も、一般の人の車による排気ガスも問題です。でもすさまじく二酸化炭素を排出しているのは、軍事関係です。米軍は世界各地に部隊を派遣していますので、その為の物資の輸送にも、また、訓練・演習などでの消費は莫大なものです。平和の在り方を根本から変えなければダメです。

 

 聖書には「律法」が出て来ますが、これはギリシア語でノモスnomosという言葉で、一般的には「法」を意味しています。これに対して、イエスが教えた最も大事な「掟」は、エントレーentoleという言葉です。皆さんは、世界で一番古い法をご存知ですか。私も今度調べる迄、知りませんでした。ウル・ナンム法典で、紀元前2100年以上前に、メソポタミア文明ウル第三王朝の、ウル・ナンム王による法が知られています。この法では、殺人、窃盗、姦淫を極刑とし、傷害、離婚、農地の荒廃を禁じるものでした。2番目に古いのが、良く知られたハムラビ法典で。紀元前1972~1750在位した、ハムラビ王に依るもので、「目には目を」で知られる特徴が在ります。また、身分によって刑罰が異なっていました。

 

十戒は出エジプト後、カナンを目指す荒野の旅の途中で、モーセを通して与えられました。出エジプトについては、前期説と後期説が在り、前期だと紀元前15世紀半ば頃の事で、後期説では紀元前13世紀と言われています。神の民ユダヤ民族を一つにまとめて、カナンに辿り着く為に、神が与えられたものとされています。第1からは、ヤハウエの神を唯一の神として拝み、その他の偶像礼拝を禁じ、第6戒は殺人、第7は姦淫、第8は窃盗に対するものです。日本では、聖徳太子が、十七条の憲法を紀元604年に作りました。憲法を英語では constitution と言いますが、原義は「共に作り上げる」という意味で、今日では、その派生語は選挙に関係する言葉です。

 

イエスの時代に、ユダヤ民族を民族としてまとめる必要が在ったのが、神殿宗教と律法主義でした。ローマ帝国の強大な力の前に、民族としてまとまりがないと直ぐにでも潰されそうな状況でした。ソロモン王の死後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂して、北は紀元前722年にイスラエル最後のホシェア王の時にアッシリアにより崩壊して、南ユダ王国の名残が在っただけです。その南ユダ王国はバビロンに捕囚されました。

 

イエスは鋭く歴史を見る目をお持ちだったと思われます。遠くない時期にユダヤ民族は民族としてのまとまりが崩れると予想しておられたと思われます。イエスは神殿の建物を指して、「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言われました。(マタ24:2)事実、紀元70年に、エルサレムはローマによって占領され、神殿は崩壊しました。以後、およそ二千年、ユダヤ人には自分の国が在りませんでした。そんな危機的な時代に、民族をまとめる律法は何の役にも立たないと、見通されていたのです。

 

このような事をパウロがはっきり意識していたか、分かりませんが、第二コリント3:14でこう言っています。「しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛ったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。」ここで言う「古い契約」とは「律法」の事です。律法を守らなければならないとする、律法学者やファリサイ派の人々は勿論ですが、キリスト者となったユダヤ人の中にも、律法を、特に、割礼と安息日は依然として大事だとするキリスト者たちが、異邦人キリスト者や、パウロその他、律法から解放されたキリスト者たちを迫害しました。人が何かから解放される事の難しさを感じます。

 

しかし、法が無くなって、全くのアナーキー(無政府状況、無法状況)に人々を放り出されたわけではなく、国の保護を受けられない状態にあっても、また小さな群れとして生き残る、或は他の民族の下に帰するにしろ、不可欠なものとして、「掟」をたった二つに絞って教えられたのだと思います。すごい見識だと思います。ご存知の通り、先ず第一に、主なる神を愛しなさい。第二もこれと同様で、隣人を自分自身のように愛しなさい、の二つです。「愛する」という言葉が、いろんな意味を持ちますので、この頃は「大事にする」と訳されるようになっています。「先ず、主なる神を大事にする」、人間の限界を超えて力を持たれる神を先ず、思いなさい。大事に思って、神が何を思っておられるのか、先ず、神に聞きなさい」ということだと思います。そして自分の様に、隣人を大事にする事は、どんな世界に在っても、通用する生き方です。

 

イエスに依る、法、律法からの解放は、アナーキーな世界に落ち込む事ではなく、どんな世界でも通用する二つの「掟」への招きにつながる解放でした。現在も、政治・経済・文化が混迷して、先が見えない時代に在っても、先ずは、何を大事にしなければならないか、或は、何を大事にしたら良いのか、この不透明で多様性の時代に、更に不寛容で格差拡大の時代に、この二つの掟は、大きな意味を持っていると思います。「掟」は英語で、command,  order と訳されています。十戒は ten commandments です。掟は、即ち、「命令」なのです。主イエスの「掟」は、住イエスの「命令」だとも言えます。

 

 

こののぞみ教会に於いても、イエス・キリストのお導きによって、神を大事にする、そして隣人を大事にする、この事を共に覚えて、共に祈り、支えつつ、歩んで参りたいと願っています。私たちにとって、神とは、私達のために、命を投げ出して下さった、イエス・キリストの父なる神であり、隣人とは、イエス・キリストが寄り添っておられる弱く小さくされた人々です。具体的に自分の隣人を捉えて、大事にして歩みたいと願う者です。教会としてもまた、主なる神を大事にしなければなりませんし、同時に、イエス・キリストに従うようにと召し出された者たちの群れ、のぞみ教会もまた、具体的に隣人を大事にしなければならないと信じます。私たちに時代を見るようにと促し、愛の掟へと招いて下さる主イエス・キリスト お導き下さい。 主イエスの御名によってお願い致します。アーメン