「大事に忠実な人は」          2019年12月29日

 

ルカ19:11~17     招きの詞 Ⅰコリント3:4~9

 

 

 

 皆さま、お早うございます。今年も最後の礼拝です。外国では「ブリッジ」と言いますが、二つ離れたものを繋ぐのがブリッジですね。日本語の「橋」というのは、「端っこ」の事なのです。行き着いてこれから先には行けない、その端っこに在るのが「橋」なのです。次の世界に繋いでくれるのが「橋」なのです。私たちも今年の端っこに着きました。沢山の事が在りましたし、問題を抱えて大変だった方も居られます。この端っこは次に繋がらないといけません。ドクター中村も亡くなられました。残念な事です。しかしその端っこでどうして居られるか、私たちはその中村先生のお気持ちを次に繋いでいかなければならないと思います。そう思ってクリスマス・メッセージも中村先生の事を思いながら聖書を読ませて頂いたのですが、中村哲先生にとって、大事な事は何だったのでしょうか。

 

 

 

 聖書には「小事に忠実な人は」と在ります。私は勘違いして「大事に忠実な人は」と書いてしまいましたが、中村先生が大事にされた事は「人が生きる」という事だと思います。人が生きる、それも、人と共に生きる事だったのではないかと思っています。人が一緒に生きる為には、水と食料が要ります。そのための水路作りだったのです。水路よりも、人が生きる事が非常に大事だった。その水路作りは私たちが一寸考える以上に難しい気がします。大事業ですが、その準備には小さな事をたくさん考えなければなりません。手間が掛ります。先ず、どこから掘り始めるか、これは割と分かると思います。水が少しでも湧き出している所です。そこからどちらの方向に掘り進めるか、自然のままでは水が流れて来ない砂漠に流さないといけなのです。地形的にも様々な所を通らなければならないでしょう。また柔らかい土地、岩の多い硬い土地、その他高低などを観察しなければなりません。その為にはどんな事を、或はどんなものを準備しなければならないか。更にあちらでは、乾期か雨期の二つの季節です。乾期では水が全く流れなくても、雨期には溢れます。それでは用水路は役に立ちませんから、水路のあちこちに溜め池みたいなものを作らなければなりません。

 

 

 

 用意周到な計画が必要です。また、日本の昔からの川を管理する技術を応用されました。大きな石を金網で包んで、護岸に使う。その様な技術が、元々、向こうにも在った様で、呑み込みが早かったと聞いた気がします。何処を流れさせて、何処に行くか、水路を一本掘れば良いわけでは在りません。それは、果てしない自然との闘いで在った気がします。砂漠の地を緑の地に変えて、人々が生きれる様に変えて行く。川には魚が泳ぎ、水辺には様々な動物が訪れるでしょう。自然を蘇らせる様な仕事をされたと思いますが、「人はパンだけで生きるものではない」という言葉が在ります。食料が在って水が在って、人は生きれるのですが、そこでまた、問題が起るのだと思われます。人々が自由で平和な生き方、お互いに喜び合える様な生き方をしなければなりません。ですから中村先生は土地の人々との触れ合いを大事にされて、人々がどんな事を求め願っているのか、上から目線ではなくて、人々の思いに直に触れながら進んで来られたと思います。

 

 

 

 水と食料を確保するためだけではなく、それを活用して、人が生きる、その様な国造り、群れを作る事の難しさです。最後の凶弾がどの様な連中に依るのか、よく分かりませんが、単に今まで対立して来た勢力だけではないかもしれません。新しい恵みが生まれれば、その利権を巡って、争いがまた起ります。人間の業と言いますか、留まる所が在りません。そんな中で、今朝、私は、最も小さいようで、最も大きい事は何だろうかと考えました。ドクター中村にとって用水路を作るという大きい事、それ以上に大事な、人が生きる事、その為には、小さな事も必要な訳です。最も大きくて最も小さい、大きい小さいを問わないで、大事な事は何だろうと思いました。今は、「人の事が分かる事」だと思います。アフガンの人々の喜びや苦しみや悲しい事など、いろんな事が分かる事ではないでしょうか。分かる事は共に生きる事でもあります。

 

 

 

 「共に生きる」、その気持ちを持って大きな事から小さな事まで、パワーショベルの運転から、何から何までされたと思います。人の事が分かる、それは人と共に生きる、その為だったのではないかと今、思います。そのドクター中村の心、一隅を照らすという言葉も使って居られましたが、自分がしている事は小さな事だと言われてましたが、その小さな事であり、それが同時に最も大きな事、それを求めて居られた気がします。これは、イエス・キリストも同じだったと思います。中村先生がどこから学ばれたか、分かりませんが、でも、イエスもそうであったと思います。最も小さい事で在りながら、最も大事な事、最も大事な事は最も小さな事なのだ、つまりそれは、人の事が分かる事だと思われます。ガリラヤの貧しい人々の事が分かる事、手の萎えた人の苦しみや悲しみが分かる事、長年、血を流し続けた婦人の苦しみが分かる事、その様な事を大事にされました。

 

 

 

 花咲か爺さんではありませんが、パ~っといっぺんに花を咲かせる様な事では在りませんでした。いっぺんに楽園が生まれる様な事はされませんでした。そんな事とは無縁な様に、ずっと山道を歩いて、小さな村々を訪ねて行かれたイエスの働きを見ますと、何を最も大事にされたのか、目の前に居る、この人の喜びや悲しみが分かる事、ですから、手の萎えた人を安息日で在っても、治して良いかと人々に問いましたが、みんな黙っていたので、イエスは怒りました。多くの人々は自分を守るため他の人々を分かろうとしない。他の人々の苦しみ悲しみを分かろうとしない。それでイエスは怒りました。

 

 

 

 私自身、中々、人の事を分かる事が出来ません。こののぞみは今年教会になりました。この教会がこれからどの様な事を大事にして歩むか、皆で心を合せて、求めなければなりません。いまスタートしたばかりです。だからこそ、お互いに何を大事にして歩むか、年が明けると、総会も在りますので、話し合って参りたいと願いますが、それを聖書から先取りさせて頂くと、「互いに愛し合いなさい」という事でしょう。「互いに思い合う」とか、「互いに分かり合う」事でも在ります。しかし、私がそれを実行するには限界が在ります。その限界をどう越えるか。先ず、神を思う事から、神から力を受けて、導きを頂いて、お互いが分かり合う、思い合う事を前に進める事が出来ると思います。私が人の事を分かる為には、神のみ心を頂きながら、お互いに思い合う事ではないでしょうか。これからもお互いを大事にしながら、主イエスに導かれつつ、歩んで参りたいと願います。主イエス、私たちを導いて下さい。アーメン