「平和への参与」     2020年6月21日

 

                                 永山辰原神学生

  イザヤ書11:1~10    招きの詞 マルコ1:1

 

先日アメリカで白人警官による黒人男性の殺害ニュースが飛び込んできました。全米各地にデモが広がりましたが、治安回復をもくろんだトランプ大統領は、ホワイトハウスの向かいの教会で、治安回復の為に軍を派遣すると脅しながら聖書を片手に平和をアピールしました。これに対してアメリカのキリスト教界から多くの批難が寄せられました。

 

しかし一方、アメリカといえば、キリスト教と政治が密接に結び付いた国としても知られています。また、313年にローマ帝国でキリスト教が国教化されて以来、中世において教会と国家は密接な関係を保持してきました。その結果、宗教裁判で大量に虐殺し、聖戦という名目で他宗教を弾圧し、宣教という名目で他国を植民地化し、土着の文化を弾圧してきました。果たしてこのようなことが真の平和と言えるでしょうか。

イザヤの指し示す平和の王による統治があるでしょうか。イザヤは、ユダ王国において、信仰と政治が結びつくことがどれほど危険なことか目の当たりにしました。ですから、彼が信仰と政治を分離させ、信仰の原点回帰を図ろうとしたこと、そして神の霊に拠る統治を呼びかけたのは、ある意味自明のことだったのです。そして、信仰が政治と結託した結果、弱き者が蔑ろにされるようになる、イザヤはこのことをつぶさに見てきました。そして、今私たちが生きる世界でもまったく同様のことが起こっています。

 

では、今日の箇所でイザヤの言う“正義”とはどうすれば生まれるのでしょうか。現在、米国では反人種差別デモが各地で行われています。私たちはそのような試みにおいて、人間の平等だったり、自由だったりを訴えますし、これまで訴えてきました。しかし私はこの平等や自由、あるいは博愛などといった人間に普遍と思える言葉に少し違和感を覚えるのです。なぜなら、平等と言ってしまうことで、相手を知ろうとする機会を奪ってしまうからです。そして相手のことを知ろうとしない、実はこれが差別の始まりです。

 

もちろん、平等その自体は間違いでありません。私たち人間はすべて平等です。しかし、相手に対して「平等」と言う前に、一人一人が全く違う歩みをしているということを前提に相手のことを知ろうとすること、これが差別と闘う第一歩なのです。

 

私たちがお互いを知った時、理解し合えた時、9節でイザヤが言う、私の聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともなくなるのです。その時にはじめて私たちの住む世界に本当の平和が始まるのです。私たちも是非、今日の箇所の指し示す「平和」を作り上げるために、神による支配と統治をこの世界に求めましょう。そして、私たちはもっとお互いのことを知りましょう。地域社会において、国において、世界において。