「捨てられた石が隅の親石となる」 2019年10月20日 

 

 マタイ21:42~46   招きの詞イザヤ53:1~4

 

 

 

 皆さま、お早うございます。壱岐教会にはお疲れ様でした。66年も続いている教会なのですね。飛永先生と「あと、10年は頑張ろう」と話した事でした。飛永牧師ご夫妻と壱岐教会員の方々のために祈って参りましょう。それと台風19号の後片づけも、この大雨で大変でしょう。もう生きる気力も失くされた方々も居られると思いますが、主イエスが励まして希望を与えて下さる様に心から祈ります。ご一緒に祈りましょう。先週、「神は自腹を切って命を注いで下さる」という話を致しました。つまり、損する事を当たり前として下さる神、それどころか、神が殺されるのです。普通には在り得ない事です。それが起こったのです。私たちが、「何故?」と苦しんでいる時に、ご自身がそれを担って下さいました。それが先程のイザヤ書にも書かれていましたが、私たちと共に居て下さり、働いて下さる父なる神、子なる神イエス・キリスト、そしてその間で働いて下さる聖霊なる神、それを、「家を建てる者が捨てた石」と譬えています。その捨てられた石が復活して、私たちに命を注いで下さる、それを「隅の親石になる」と譬えているのだと思います。

 

 

 

 この「隅の親石になった」という新共同訳の言葉ですが、これが一寸難しい言葉だと気が付きました。本田神父は「これが角スミの首石オヤイシになった」と訳し、ギャロット先生は「土台の親石となった」、田川先生は「隅のフランシスコ会訳も「すみの親石となった」、口語訳は「隅のかしら石となった」と訳されています。英語のGood News bible は the most important of all と訳して、「石」と訳していません。新欽定訳 The New King James Version では、chief cornerstone と訳しています。ギリシア語はただ、ケファレー(頭)という言葉だけです。頭というのは石造りの建物の隅に在るkeystone, capstone と辞書では訳されています。私はこの頃、聖書をキチンと読もうと、日本語の問題を、元はどんな意味だったのかと考えて、ギリシア語の勉強が必要だと思います。でもギリシア語を正確に訳せば、それで分かるのか、という問題が更に在ると思います。日本人の私たちとして、ピンと来るのか、腑に落ちるのか、この事も大事だと思います。

 

 

 

 少し前に、遠藤周作の「沈黙」から、「踏んで良いよ、お前の足の痛みは私が一番分かっている」とイエスが語った話をさせて頂きました。そして遠藤周作は西洋のキリスト教を日本人に合うキリスト教に直す、日本の人々に通じるキリスト教にしなければならないと考えて、それを「だぶだぶの洋服を和服に仕立て直す」と表現しています。私も遠藤周作に大いに賛成で、努力もしたいと思っています。その様な努力をしている方に、本田神父、井上洋治神父、またその事を現代の問題として私たち、何をしなければならないか、という課題を担われた犬養先生などの先生方に倣って行きたいと願っています。もう一人その課題を担っている方が居ます。皆さまご存知の気仙語で腑に落ちる訳を追及している山浦玄嗣はるつぐドクターです。

 

      (以下、「ふるさとのイエス」からの引用です。)

 

この『隅の親石』のことをケセン語で何というのか知りたくて、まず私は気仙大工の棟梁たちや職人に聞いてまわった。ところがだれも知らなかった。そんなことばは聞いたこともないという。石のことだから、石垣積みの職人ならわかると思い、これも何人かのおじさんたちに尋ねてみた。だれも知らなかった。わたしは途方に暮れた。どうしよう。ふと思いついて国語辞典を調べてみることにした。愛用する『新明解国語辞典』(六万二千語収載)をめくってみたが、ない。この辞典に載っていないということは、日本人の常用語とはいえなかもしれないと思った。『日本語大辞典』(十七万五千語収載)にも載っていなかった。これはよくよく珍しい語彙であるらしい。そのうち大枚をはたいて『日本国語大辞典』(五十万語収載)を買った。ここでやっと見つけた。 親石=①石造家屋の礎石のうち、隅に置く重要な石。転じてもとになるもの。基礎。②頭石に同じ。 頭石=石造家屋の礎石の意から、キリスト教で、すみに置かれる重要なものをいう。 福音が特殊業界用語に満ちたひとりよがりの訳語のかたまりではなく、世間さまに素直におわかりいただけるようなものにならない限り、到底『よい便り』にはなりえない。われわれはあらゆる町で、あらゆる村で、それぞれのふるさとにイエス・キリストの『よい便り』をお伝えする努力をする必要がある。 ずいぶん悩んだ末に、わたしは思い切って、大胆な意訳をすることにした。それは次のようなものである。  

大工でアぐも棄げた痩せ丸太まるだ

大黒柱jもばjに成長おがった。

旦那だな神様がみさまjやった事ごった。 (正確にはj ではありません)

俺等おらまなぐ不思議jな事ごっだ。

 

            (気仙文字の代わりの  j です。  に近い音だと思います)

 

 私たちには気仙語はピンと来ないかも知れません。でも、「隅の親石」、とか「頭石」で、私たちは何か分かった気でいたのではないでしょうか。私たちは普段、石造りの家には住んでいません。日本は殆ど木造家屋ですから、山浦先生はこんな訳を考えられたのです。「大工が捨てた痩せ丸太」とまるっきり言葉を変えて訳されました。これが元のギリシア語に忠実なのかと言えば、そうではないです。でも、元のギリシア語が伝えようとしている事は何なのかと考えて、悩んで悩んだ結果の言葉です。新共同訳の言葉は、分かる様な気がしますが、私たちはそれに慣れて、ただ分かる様な気がしている、聖書が元になった言葉、日本語に訳した学者か誰かが発明した言葉なのです。普通の方には余りピンと来ない言葉なのです。これから私も、皆さん方の腑に落ちる様な言葉、内容の理解が必要だと思います。

  

 その事が出来た上で、聖書の言葉が、皆さま方にとって、そして私にとっても、神の言葉になるのだと思います。慰め、励まし、奮い立たせてくれる、命を注いで頂く、神の言葉になるのだと信じます。この山浦先生が努力して居られる事は、私たち聖書を語る者にとって、大事な指針です。話を元に戻しますと、神ご自身が自腹を切って命を私たちに注いで下さった出来事を、この言葉の様に譬えているのです。「不思議なこった」と訳されていますが、この出来事は私たちには分からない事なのです。

  

 神が私たちの為に命を捨てられた、こんな事は本当には私たちには分からない事です。分かったつもりなのです。「神は愛である」などの言葉の中に飲み込まれてしまっているのです。この言葉を町を歩く人に語ったら、「ああ、本当にそうですね」と感心されるでしょうか。「では何故、大震災などが起るのですか」と信じられないと思う言葉が返って来るでしょう。「神が愛である」事は、私たちには分からない事なのです。ただ、神がその出来事を起こして下さったという事です。神は宇宙全体の主ですから、神はご自身が思われる様になさるのです。起こされた出来事を私たちは、「恵み」として受けるだけなのです。その様に私たちと共に生きて下さる神として、私たちは受けて行く以外にはないのです。或は信じて行くしかないのです。私たちは、ただ感謝して受ける、日本の古語では「信じる」の意味です。さらにそれは私個人だけの事では無くて、お互いに受け合っていく、互いに支え合い、感謝して歩む、信じる事、受ける事だと、今わたしは信じています。大工が捨てた痩せ丸太を、家の大黒柱にして、私たちを支えて居て下さる、その事をイエスの出来事を通して私たちに示して下さいます。イエス・キリスト アーメン