「見えない事どもに目を注ぐ」      2018年11月11日

 


 第二コリント4:18     招きの詞マタイ11:1~6

 

 

 

 皆さま、お早うございます。秋晴れの良い朝、屋内に居るのが勿体ない気がします。今朝の「見えないものに目を注ぐ」という言葉は何となく分かるように思われています。神は見えない方、聖霊も見えない方だと思いますので、見えないものに目を注ぐのは、何か天の向こうに目を向ける事の様に思われがちです。パウロは何を考えていたのか。神や精霊を「もの」呼びする筈はないと思います。この「もの」は人を指す「者」では有りません。「見えない事」が良いでしょうが、今朝「事ども」としましたのは、日本語では「事」の複数形は言い難いです。「事ども」としましたが、響きが良くないので、「いくつもの見えない事」ですと、複数形だと分ります。また、パウロの言葉ですが、イエスがなさった事と関係はないのでしょうか。決して抽象的な事を指すのではなくて、「もの」は中性の複数形ですから、様々な具体的な事を指していると思います。「目を注ぐ」は「よく考える、思いを巡らす」という意味です。目に付き難い物事を見て、よく考えてみるという意味だというのが、私の理解です。

 

 話が飛びますが、横は国道ですからトレーラーがよく通ります。でっかいコンテナーが天神の方にも反対の方にも走ります。天神の方に向かうトレーラーは何処に行くと思われますか。博多ふ頭です。船に乗せるのですが、その為には大きなガントリークレーンがあります。それを動かす人がいます。運転室は地上から50mの高さにあります。そこからコンテナーを掴んで船に載せる、または船からトレーラーに載せます。その仕事をしている人を、ガントリーマン、縮めてガンマンと呼んでるそうです。この人たちにとってはスピードを如何に速くするかが大事なのです。大きな貨物船が港に泊まると、一泊何十万円もすると思います。ですから、早く降ろして早く積む事が求められるのです。速さが一番ですが、一流のガンマンは速さだけではないのです。速いガンマンは一人前で、一流ではない。一流には「やさしさ」が必要なのです。何故かお分かりですか。鉄の箱を積み降ろしますので、カチッとはまる時にガチャ~ンと大きな音がします。下で、確認して、固定する別の人が働いています。この人には直接に大きな金属の音が響きます。一日に何十回、何百回と聞くのですから、痛みとして身体に来ます。ストレスが溜まります。その為に一流のガンマンは優しく置くのです。その気遣いが出来る人が一流なのです。スピードが在ってしかも優しい。下に居る人の心の中まで、ガンマンは見ているのです。見えない事を見ているのです。人の心の見えない部分を気遣う。

 

 この様な意味で、私たちの周りにも幾つもの見えない事が有ります。人の心が見えない、そこをしっかり見る、或はよく考える、思いを巡らすことを大事にする。人の見えない心を思い諮る、おもんぱかる(慮る)事です。この様な事が私たちの日頃の生活の中に少しでも在れば、お互いに気持ちよく過ごせる世界が拓けると思います。これは見ようとしなければ、見えません。思わないことに思いを巡らす事は幾らでもあります。家族の中でもしっかり相手の事に思いを巡らせる事ができます。私たちは見えない事に如何に思いを巡らすか、これには限りがありませんし、何処にでもあります。これは東京駅の中の或るレストランの話です。お昼には近くのサラリーマンたちも食べに来ます。旅行者もいます。しかしお客が席に着くと5分も経たないうちにアツアツの出来立てトンカツが出て来る。普通トンカツ定食は15分はかかるそうです。揚げたてが5分で出て来る。それは店長が客席の様子を見て、あの座席は後何分で空く、その頃合いを見計らって厨房に店長が注文を入れる。そして空いた席にお客を導いて、5分でアツアツのものが出されるのです。それで店の回転も良くなり売り上げも伸びている。見えない所に対する心遣いが在ると違うのです。心を尽くせば、見えない事柄はどこにでも在り、たくさん見えて来るのではないかと思われます。

 

 でもこれは人の心の裏側のような事だけではなくて、見ようと思わなければ見えない事は沢山あるのです。この世の中の不正、子どもたちの貧困、格差の犠牲者も見えない。何故か、見ようとしていないからです。私たちは自分が見たい事を見ます。見たくない事はちょっと可哀そうだなと思っただけで、す~っと通り過ぎてしまいます。子どもの貧困は今5人に1人の割合で、先進国では最低だそうで、貧困とは、収入の平均の半分以下が貧困です。児童の5人に1人がその状況だと言われている。或は久山療育園をご存知だと思います。重症心身症の人たち、止揚学園もそうですが、寝たっきりの人たちが生活しています。これも見ようと思わなければ見えません。密やかに生きておられるからです。自然災害の被害者の方々に対する行政の態度、パッと見たら良い事をしている様に見えます。土木工事や建設など活気があります。でも被災者の方々に手が届く様な事がなされているのか、これもちゃんと見ないと見えない。被災者の心を感じなければ、感じられない事だと思います。こんな事を私がいくら話しても尽きません。

 

 ここでイエスがなさった事を考えてみました。バプテスマのヨハネが人を遣わして、「あなたをメシアと考えて良いのか」と尋ねさせます。するとイエスは「行って、見聞きしている事をヨハネに伝えなさい。」と言われます。その出来事は、それを受けた人には分かります。エルサレムの神殿の偉い人たち、ローマ帝国の偉い人たちには見えない世界です。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と言われます。(マタイ11:1以下)イエスが人々との出会いの中で起こされた出来事、私たちは聖書を読みますから、知っているつもりです。でも世の中の人はイエスの事を知らないのです。知っていたとしても、あれは魔術などいかがわしい事をやっているのだ、あんな事で人々を惑わす奴は殺してしまえとなったのです。貧しい人や苦しんでいる人が、其処で喜びを得た、希望を得た事は見ていないのです。律法を守らず神殿にお参りにも来ない連中に何かやっている、とその中身を見ない聞かない、そこに喜びが起こっている事を見ようとしません。

 

 この事を私はいま教えられています。イエスがなさって下さっている事、イエスが私たちに教えていて下さる事、それに対して私たちは殆ど見ていないに等しい。それで何か分かった様な事を私は申し上げていますので、誠に申し訳ない気持ちです。イエスは先ず神を大事にしなさい。それと同時に隣人を自分と同じく、心を尽くして、思いを尽くして力を尽くして大事に思いなさいと教えられました。そしてご自身がそれを実行されました。その世の中は、エルサレムの神殿は栄え、ローマ帝国はドンドン大きくなっていました。イエスのなさった事は殆ど知られていません。歴史の記録に殆ど残っていません。まったく無いわけではありませんが、しっかり記録されたものではありません。世の中から見たら、見えない世界、ガリラヤとかにイエスは沈んでおられた。その方を私たちは「主」としています。私たちが生きる時の主人です。この方に従い倣うのです。そのイエスに出会う事もまた、目に見えない事です。「今日、イエスに出会った」と皆さんは言われますか。イエスは見えないです。でも具体的に生きる中で、誰かに出会って、そこに喜びが起こったら、そこにイエスのお働きが在る、或はそこでイエスに出会ったと言って良いと思います。イエスに出会う事、イエスの導きの中で生きる事、これも中々見えない事なので、その様な事に思いを巡らし、思いを注ぐ、いろんな人々の状況、自分の事などの中で、イエスに導かれて生きる事、イエスに出会う様に私たちが心を巡らす、その事を今、教えられています。生きる時に先ずはイエスとの出会い、見えにくい出会いに心を注ぎ思いを巡らす、その事の大事さを教えられています。