「先が見えない」         2020年年4月19日

マルコ9:17~27    招きの詞 マルコ5:25~34

 

 皆さま、お早うございます。残念ながらコロナウイルスで礼拝をお休みします。早く終息しますように、祈りしましょう。奨励を文章化しました。ネット送信で礼拝をお届けする準備をしましたが、中々上手く行きません。しばらくお待ちください。

 

 新型コロナウイルスが世界中に拡散して、重大局面になっています。外国では都市の封鎖なども行われています。これからどうなるのか、いつ頃終息するのか、先が見えない状況が続いています。そうでなくても、経済格差が世界中に広がり、また人権格差その他もその差は益々広がりつつある状況です。そこにこのウィルス騒動です。21世紀は始まったばかりという時期です。この世紀はどうなるのでしょうか。21世紀は冒頭から荒れています。2001年にはアメリカ・ニューヨークのワールドトレードセンターに旅客機が2機突っ込み、所謂9.11が起こりました。2011年311日には東日本大震災が起こり、2017年には北部九州豪雨災害が、また熊本県を中心に大地震も起こりました。そして今度のコロナウイルスです。この間に世界中で、経済格差が広がり、難民問題など先が見えない状況が続いています。

 

百年前の20世紀冒頭も大荒れで、2008年にはアメリカで大不況が起こり、1914年から2年間第1次世界大戦が起こり、1929年には大恐慌、日本でも1923年に関東大震災が起こり、それらが、第2次大戦の遠因となり、第2次大戦では何千万にもの人々が犠牲となり、ヨーロッパは沈み、アメリカとソ連がスパーパワーとして、長く冷戦が続きました。朝鮮戦争、ベトナム戦争、その他世界中で紛争が続き、ソ連のアフガン侵攻も在り、更に反米を詠うイスラムによるテロなど、21世紀に問題は流れ込んで来ています。アフガンでは今やソ連に代わって、アメリカが戦い、アフリカ、南米、東欧など民族問題や代理戦争も絡み、終息するようには見えません。更に21世紀の問題は、政治・経済の問題の陰としての、温暖化、気候変動の問題も解決の先が見えません。解決策は見えません。先が見えないのです。

こんな20世紀初頭の先が見えない状況は、キリスト教神学にも大きな影響を与えました。18世紀頃からの科学主義に添うように、自由主義神学が大きな流れとなっていましたが、第1次大戦後の混乱の中で、カールバルトたちの危機神学、または弁証法神学が起こります。自由主義に対して新正統主義とも言われます。自由主義は聖書の中の天地創造や処女降誕、イエス・キリストの復活などを否定するようになります。また、科学の発達による人間の力を信じる自由主義の流れの中で、第1次大戦や大恐慌など経済の破綻などで、この楽観主義とも言える流れは危機に晒されます。自由主義神学、敬虔主義神学など、人間の歴史的な経験や功績に基づく信仰の流れは大きく立ち往生します。弁証法神学や福音主義神学は、人間の自由に信仰や敬虔な宗教心に頼るのではなく、神ご自身がご自身を現される「神による啓示」にその出発点を置きます。神学の流れを短く解説する力も在りませんが、神学もまた人間の歴史の中で、大きく変わるものでもあります。人間の歩みの中で、先が見えない状況になった時、危機神学、弁証法神学が生れたとも言えます。

 

マルコ福音書9章の悪霊に取りつかれた子供は、「幼い時から」悪霊に取りつかれて、火の中や水の中に投げ込まれて殺されそうになりました。父親と子供共々に長年苦しんで、先が見えない状況に投げ込まれていました。そこにイエスが現れました。「群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き」ました。この地域を考えるに、8:29からイエスの「一行はベトサイダ」に着いたとあります。聖書巻末地図6をご覧下さい。ガリラヤ湖にベトサイダと在ります。(実は、もう一つ、ガリラヤ湖の西北岸にも同名の村があるそうで、こちらはマルコ6:45に「向こう岸のベトサイダ」など出て来ます。)それからイエスは「フィリポ・カイザリヤ地方の村々にお出かけになった」と在りますので、まるこ9:2の「高い山に登られた」と在りますが、ヘルモン山かも知れませんし、この地図の北の方の山岳地帯です。ガリラヤから遠く離れた山岳地帯の村にイエスが来られたので、民衆は大変驚いたのだと思われます。

 

ここでこの父子とイエスが出会います。イエスの評判はこんな遠方の地にも届いていたのでしょう。父子は長年、先が見えない状況の中で、苦しんで様々な事を試して来たと思います。病を癒すという様々な療法師たちが居たでしょう。でも悪霊を追い出せず、命の危険にさらされて来たのです。そこに評判高いイエスが現れました。驚きと共に、すがる気持ちは高まったでしょう。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と父親はイエスに何とかして癒してもらおうと必死に頼み込みます。するとイエスは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と言います。この「信じる者」は父親を指すと取れますが、イエス自身とも取れます。18節に「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」と在ります。その父親は自分の事を言われたと思い「信じます」と叫びます。この言葉を山浦医師は「ジャジャジャ、神様を力にいだいしあんす!」(私の解釈では「神様を力だと思います!」)と訳しています。「信仰のないわたしをお助けください」を、「神様を力に思う心の足りねこの俺を如何にかお助けつてくなんせ!」と気仙語に訳しています。

 

またマルコ5章には12年間も出血の止まらない婦人の話が在ります。この場所は「湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。」(5:1)そこから「舟に乗って再び向こう岸に渡られると」(5:21)に在りますので、ガリラヤ湖のカファルナウム辺りだと思います。婦人は多くの医者に掛かって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしますが、何の役にも立ちませんでした。そこにイエスが来られたのです。日頃からイエスの評判を聞いていたので、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と彼女も追い詰められて必死の思いだったでしょう。イエスは彼女を探し当てて「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(5:34)と言います。でも、この婦人には普段からの熱心な信仰が在ったとは聖書は語っていません。

 

 

私はこの二つのイエスの奇跡物語のポイントは、イエスが、この二人の傍に来られた事だと思います。二人が信仰深いからではなく、敬虔な信仰だからではなく、イエスが困難な中に居る人々をイエスが捜し求めて来られたという事です。非常な苦しみの中で、先が見えない二人の傍にイエスが来られた。イエス・キリストの一方的なお働きなのです。私たちにも先が見えなくて、立ち往生しています。「主イエスよ、来て下さい!」と祈るしか在りません。イエス・キリストのお働き アーメン