「イエスの必至な出会い」      2020年9月20日

 

マタイ15:21~28  招きの詞マルコ3:1~6

 

 

 

 皆さま、お早うございます。松井兄弟、洗礼式、おめでとうございます。洗礼を受けるご決心に感謝します。また、ここまで導いて下さった主イエス・キリストに心から感謝致します。私たちバプテスト教会は、先程松井兄弟がして下さった様に、信仰告白を致します。カトリックの教会は、赤ちゃんが生まれるとすぐ洗礼をします。これを幼児洗礼と言いますが、これにバプテストの教会は反対して、ちゃんと信仰を告白して、洗礼を受けます。その根拠について今朝はお話をさせて頂きます。信仰告白や洗礼も大事ですが、最も大事なのは、私たちを慈しんで下さるイエス・キリストの力です。私たちは、自分が教会に来て、自分が信仰の決断をしたと思いがちですが、イエスは、「あなたがたが私を選んだのではなく、私があなた方を選んだのだ」と言われました。(ヨハネ15章)イエスのお導きが無ければ、松井兄弟がどんなに一生懸命、教会に通っても、洗礼を受ける最後の決断には至らなかったのではないかと思います。

 

 

 

 イエスは私たちに出会うために、必至に出会いを求めて下さいました。先程の招きの詞の個所にもありました。ファリサイ派の人々たちは、「どうやってイエスを殺そうか」と相談を始めました。その意味では、「必死」ですが、私は「必至」の出会いと考えます。必ず私たちとの出会いに至って下さると信じるからです。イエスはいろんな所を旅されましたが、パウロも伝道の為に大旅行をしています。パウロは、地中海世界の大都会を巡っています。テサロニケやコリント、エフェソ、そしてローマ、その他、大きな街を旅しています。これに対して、イエスはガリラヤを中心として、小さな町々、村々を旅されました。今朝のマタイに在ります様に、さらに山を越えて、ティルスとシドンの地方にも行かれました。マルコの平湖記事では、シリア・フェニキア地方となっています。聖書の巻末地図8で場所を確かめて下さい。パウロの伝道旅行の地図です。シリアは今も国が在りますが、フェニは非常に古い国で今は在りません。地中海世界をまたに、大きな貿易をしていました。その取引に必要だったのでしょう、フェニキア文字を発明しています。人類最初の頃の文字の一つです。

 

 

 

 そこへ行くには、山々を越えて、大変な旅をしなければなりません。皆さんはガリラヤ湖がどんな高さの所に在るかご存知でしょうか。何と、世界で2番目に低い所、海面下213mに在ります。一番低いのは、ご存知の「死海」です。ガリラヤ湖の周囲の風景を、今朝の週報に挟んでいますので、ご覧ください。周りを山に囲まれているので、突風が吹きやすいのです。この山を越えても、その先は山岳地帯で、山を越え谷を降りてまた昇り、曲りくねった山道をずっと歩かなければなりません。その山々の高さの平均が800mです。丁度、この背振の山々を越えて、佐賀県に歩いて行くようなものです。そんなにしてまで、イエスは困っている人々を訪ねて行ったのです。シリアフェニキアですから、ユダヤ人とは違う血が混じっています。多くの病人や悪霊に取りつかれた人々を癒して下さるイエスの評判はこの地方にも伝わっていたでしょう。娘が悪霊に取りつかれて苦しんでいる母親が、イエスのことを聞きつけて、直ぐにイエスの所に来て、足元にひれ伏して癒してくれるように頼みます。しかし、イエスの対応は一見、冷たいですね。初めは何も言われないし、自分はこんな異邦人の為には遣わされていないとまで言います。本当にイエスの言葉ですかと言いたくなります。でも、実際は山を越え、谷を上り、相当に苦労してここまで来ているのです。簡単に自分は関係ないと言われる筈が在りません。皆さんは如何思われますか。貧しい人々、病気の人々、悩み苦しんでいる人々のために、ここまで苦労して来られたのではなかったでしょうか。その遠い所にも苦しみ悩んでいる人々が居る事を、ご存知だからここまで、来られたのです。

 

 

 

 でも、イエスは善意を一方的に押し付ける為にここまで来られたわけではないと信じます。上から目線で、下に押し付けるのではないのです。俺が癒してやるぞと言うような態度ではありません。下の、底辺で苦しむ人々と同じ立場に立って、その人々の苦しみを分かち合うためには、当事者の人々の心の声を直接に聞かなくては、と思われたのではないでしょうか。どうしてもその母親の言葉を聞きたいと思われたのです。相手の事をよく分かって、必要なら手を差し伸べられたのです。言葉を替えれば、相手の告白を待って居られるのです。相手の心の奥底に在る苦しみ、悩みを引き出して聞いて下さるわけです。相手と同じ所に立とうとされているとも言えます。

 

 

 

ここに、今朝、松井兄弟が信仰告白をされた事の意味を理解できると思います。兄弟の信仰告白に、「イエスは下の者たちを助けて下さいました」との言葉がありました。この様に、心底苦しむ相手と同じ立場、相手と同じ低い所に立って、相手を大事にされるイエスのみ心なのです。シリアフェニキアの母親の心の苦しみを引き出して耳を傾けて、アーメンと言って下さるイエス・キリストです。今朝、イエス・キリストは松井兄弟の心の奥底の信仰告白を引き出して下さり、耳を傾けて聞いて下さり、アーメンと仰っておられると信じます。

 

 

 

このシリア・フェニキアの母親の心の奥底の苦しみを、引き出し、耳を傾けて下さったイエス・キリストのアーメン また、今朝、松井兄の心の奥底の信仰を引き出して、耳を傾けて下さるイエス・キリストのアーメンがここに響いています。イエスのこのアーメンに唱和する形で、私たちも松井兄の信仰告白に、アーメンと言えるのだと思います。私たち一人ひとりの心の奥底の声を引き出し、耳を傾けて聞いて下さるイエス・キリスト アーメン 感謝です。洗礼を受けられた松井兄弟のこれからの信仰の歩みを祝し、お導き下さい。また、松井兄の洗礼式を共に祝い喜んで下さった方々、お一人お一人を祝しお導き下さい。主イエス・キリスト 感謝 アーメン