「あなたがたより先にガリラヤへ」        2018年4月1日  

                イースター礼拝

 

 マルコ16:1~8      招きの詞マルコ1:9~11

 

 

 皆様、イースター おめでとうございます。森田さんも本当にお久しぶりにお出で下さり感謝です。それから梶原兄弟も新しい歩みが上手く進んでおられると念じています。今朝イースターを迎えました。イースターはイエスが復活されたという事で、私は「おめでとうございます。」というよりも「感謝」と申しますか、本当に有り難いという気持ちが強いのです。私たちのために十字架に架けられた方が私たちのために復活されたと信じています。私の新しい生き方、私たちが新しく生きるためにイエスは復活して下さったのだと思います。復活されたイエスがガリラヤに行かれたとマルコは伝えます。そこでバプテスマのヨハネからバプテスマを受けると聖霊が天から聖霊が降って来たと聖書の個所を読んで頂きましたが、その聖霊によって父なる神は御子イエスがこれからガリラヤの地で働く事に対して、祝福しまた力を与えて下さったと信じます。イエスのお働きには聖霊が一緒に働いていたのです。今朝は復活されたイエスが「あなた方より先にガリラヤに行かれる」というガリラヤは、私たちにとって現代のガリラヤは何だろうかと考えて見ました。二つ考えました。

 

 一つは日本で言いますと、やはり東北の大震災の被災者の方々が居られる所です。この前TVで見ましたが、現在多くの人が大震災の事を忘れつつあるけど、それに対して「風化させない」とか「風化を恐れる」という言葉に対して或る被災者の方は「私はこの言葉が嫌いだ」と言われたのです。それはその被災者の方には「忘れようと思っても、忘れる事が出来ない」事なのです。自分のご両親を亡くされて、今も行方不明だそうです。その方には風化させようにも忘れようにも「忘れきれない」、思いを新たにして歩み出した方が良いし、そうしなければならないと頭では分かる、理屈では分かるけれども、どうしても悲しみから離れる事が出来ない、風化できないのです。その様な方を思いますし、また原発の放射能で家族が遠く離ればなれに生活しなければならない方々も多くいらっしゃいます。放射能は時間が経たなければどうしようもないですし、その時 間も十年、二十年ではなく百年、二百年という単位です。さらに東北だけではないのですが、東北といいますと明治維新以降、日本が西洋化しようとする中で、多くの人々が駆り出されて、不景気の時には一番苦しみを受けて、ずっと長く一つの「異邦人の地」として搾取され苦しんで来ました。今度の事だけではなくずっと続いて来たのです。

 

同時に沖縄の事も思います。基地の問題も日本が平和条約を結んで独立した時に沖縄は見捨てられました。しかし沖縄は明治維新の前から、島津藩の頃からと言いましょうか、ずっと搾取されて来ました。その様な沖縄なのです。やはり今も基地の問題などいろんな形で差別されている人々の事を私たちは心に留めなければならないと思います。世界に目を向けますと、シリアの内戦、ここもアサド大統領の長期政権の故に起っている反政府運動、それにイスラム過激派がそこを根拠地にしようとしたり、トルコやロシア、アメリカなども巻き込んで渦を巻いています。人々は命からがらの状況です。また中村哲先生が働いておられるアフガニスタンでもイラクでも問題の地を挙げるには枚挙にいとまがないという状況です。例えて言えばそんな所に復活されたイエスは行かれたのです。豪華な神殿の至聖所に入られたのではなく、遠い遠いガリラヤの地、搾取されて沈んでいたガリラヤに行かれたのです。そこを現代でイメージしますと、今挙げたような所が目に浮かびます。

 

もう一つは「異邦人のガリラヤ」と言われていましたが、その「異邦人」という言葉です。ユダヤ人からしますとそれは差別する言葉です。自分たちの様に神に選ばれた民ではない、神に選ばれていない、神から祝福を受けていない民族だ、という差別なのです。自分たちと違う汚れた人々だという事です。そんな人々のガリラヤというのです。例えばペトロがイエスの裁判の場面で大祭司の女中から、「この人は言葉使いからしてもあのイエスと一緒に居た」と言われます。するとペトロは「あんな人は知らない!」と強く否定します。ガリラヤの人々とは、日本で言えば、東北や沖縄の人々の様に言葉が違う人々だという事です。差別されている「異邦人」、これを今に置いて考えますと、高齢者の人々、或は身体や精神的に大きな障害を受けている人々の事だと考える事が出来ます。或は在日韓国の 人々、戦争のために強制されて日本に連れて来て捨てられる様に死んで行った方々、戦後も差別されて生きて来た、「在日」という言葉が有ります。これもやはり差別です。これらも「異邦人のガリラヤ」と同じ事だと思います。長く虐げられてきた人々がたくさん居られます。経済格差の拡大の中で、子供食堂とか或る小学校での有名なデザイナーの制服の問題、公立中学校でも制服が必要になりますが、その制服が買えない家庭の問題も在ります。私たちのために甦って下さったイエス、私たちと共なるイエス、このイエスは異邦人のガリラヤの人たち、東北の差別された人たち、沖縄の差別された人たち、シリアの戦火の只中に居る人たち、現在の社会の中で取り残されている人たち、その様な人たちに寄り添っていて下さる、そのようなガリラヤへ行かれたと伝えています。

 

「あなた方よりも先に」という言葉も非常に意味が在ると思います。私たちもこの様な人々に何かお手伝いする、大震災に東北まで行かれた梶原さんも本当に疲れて帰って来られましたが、私たちがそこへ行く、何かをする、それよりも「先に」、私たちが何か行動を起こすよりも「先に」、イエスは行かれるとマルコは思いを込めて伝えています。「あなた方よりも先にガリラヤへ行く」、この言葉もイエスの覚悟と言いますか、そんな事も受けます。「貴方が何かする前に、私が行っとくバイ」という様に聞こえます。「だから後から付いて来なさい。後からで良いから来なさい。一緒に歩もうよ。」という言葉が聞こえて来る気がします。イエスがその様な人々に寄り添って歩んで下さったからには、私たちも招かれ励まされて「あなたもその人たちのために祈って、一緒に働こう、一緒に何かしよう。」とイエスの招かれ、少しでも「ガリラヤ」の人々に寄り添う気持ちをイエスから促されているのではないでしょうか。これが復活されたイエスのお働きだと思います。十字架に架けられて下さった事のお働き、それと私たちのために復活されて今働いていて下さるイエス、そして最も苦しんでいる人々の所へ私たちよりも先に行って下さるイエス、この方をこのイースター、イエスが復活されたというこの時期に、イエスに寄り添って頂きながら私もまた、祈り少しでもお手伝いする気持ちで「異邦人のガリラヤ」にイエスに招かれる言葉を頂いていると信じます。

 

イエス・キリストのご復活、有り難うございます。アーメン