「自由な者だから、すべての人に仕える者になる」

                     2020年11月8日

第一コリント9:19~23   招きの詞マタイ20:25~28

 

 皆さま、お早うございます。だいぶ涼しくなって紅葉もだんだん下に降りて来てますね。そろそろ見頃でしょうか。皆さま方は今朝の私のメッセージの題をご覧になられてどう思われましたか。そんな事が出来るはずが無いのに、キリストを信じ、キリストのために働けば出来る、そんな事で皆さんを働かせようとか、或は、皆さんを丸め込もうとするのだろうと思われましたか?それとも、「何も思わなかった。どうせ、そんな事は出来ないんだから」と思われたかもしれません。私もこの聖句に飛びついて、ホームページにも載せましたので、もう少し考えれば良かったなと反省しきりです。奨励の準備の段階で立ち往生です。どの様に話せば良いのか道筋が中々浮かびません。パウロが「わたしはだれからも束縛されない自由市民の身ですが」と書いていますが、自由市民とは、ローマの市民権を持っているという事です。彼はユダヤ人で、律法を詳しく勉強した人ですが、何かの機会にローマの市民権を持つ事が出来たのです。ローマの市民だから、自由市民なのです。ユダヤ人はローマ帝国からいくらかの自治を与えられながら、肝心の所では、束縛されています。ピラトが最後を決めるのです。

 

パウロは「誰にでも仕える側に身を置きました」と過去形で語っています。パウロはすでに、仕える側に身を置いたのです。新共同訳では「全ての人の奴隷になりました」と訳されています。この奴隷とかの言葉は時代に相応しくないと思いますが、現代でも、闇の世界では奴隷として人の売買がなされているようです。日本も差別とか人権の問題では割と黒い方に置かれています。日本の会社にも、ブラック企業と言われる会社が在り、いうなれば人を奴隷扱いにしています。人権を認めないのです。朝6時頃出社して、夜中の2時過ぎまで働いて、朝、また8時には出社しなければならない人もたくさんいます。それが最もはっきり表れるのが、非正規社員と言われる人々です。まるで奴隷扱いの制度にも見えます。様々な差別が在りますが、或る意味で奴隷扱いにつながります。老人をもう力が無いと決めつけて、自立した人として認めないとか、男女差別、学歴差別、部落差別など尽きません。

 

人を奴隷扱いする事は、別な言い方をしますと、頭の無い人間扱いするとも言えます。ただの働く手足で在る事を強いるのです。キリストは教会の頭とよく言われます。パウロは自分の事を、そのキリストの奴隷、僕、手足だと言っていますが、その場合、手足は頭を絶対に信頼している事を表しているのでしょう。だからキリストの信仰、普通の解釈はキリストを信じる、キリストを信頼する事で救われると言います。だから「信仰心」が大事だと長くキリスト教会で言ってきました。他の宗教でも、その事をずっと言ってきました。それを良い事だと思う方々も居られるのです。教祖に熱心に従う信仰心を大事だと思う方々です。教会の頭がキリストで在る事をひっくり返す気持ちは、勿論ございません。でも、皆さんにキリストの手足になりなさいとと言いたいのではりません。パウロの言葉からは、その様にしか取れません。招きの詞のマタイでも、仕える者になれと言っていると取れます。キリストを信じて、キリストに、そして人々に仕える者になる事の大事さを語っているように取れます。

 

パウロが自分は自由市民だと言う時、それは心の事だけではなく、体も全身が自由だと言っているのです。また私たちもキリストによって体全体が自由にされていると思います。自由な人とは自立した人ですね。自分が思うように出来る人だと思いがちです。そこでヨーロッパでは、「自由、平等、博愛」というスローガンになりました。各人は自由であり、平等を生み出し、そしてお互いを大事にする博愛です。でも本当に思うように出来る自由な人が居るでしょうか。私自身、私一人だけで生きているわけでは決して在りません。人のお世話になっています。他の人が育てたもの、作ったもの、或は海で獲ったものなどいろんなものを頂いているのです。だから、自由だから平等、そして博愛と言うのではなく、パウロは、自由、仕える事、そしてもう一つ、博愛ではなく、キリストの信仰、こう言っていると思います。「自由、仕える事、キリストの信仰」です。この「キリストの信仰」が中々、解釈がたくさん在って難しいのですが、此処が今朝のお話のポイントになると思います。今までは「キリストを信じる信仰」と言われて来た事、また本田神父も「キリストに信頼してあゆみを起こすこと」と訳されている事を申しました。

 

そこを今朝は私なりに言い換えますと、「キリストの信仰」は「キリストのお心、或は、キリストの霊」だと申し上げたい。そして、キリストの霊と申しますと、キリストのスピリット、キリストの精神とつながります。先ずは、「キリストのお心」です。人々に仕える事は、キリストのお心が、私たちをその様に導いているのだという事です。キリストの霊が、私たちを人に仕える様に導いているのです。もう一度、キリストの信仰を、キリストのお心、霊、スピリットだと訳したいのです。でも私たちの信仰は人に仕える信仰だとは、いきなりは言えないのです。そこには無理が在ります。中々人には仕えられません。そこを信仰心の向上で越えなければいけないとか言われて来ましたが、やはり私たち凡人には、そうは簡単に出来ません。パウロは「誰に対しても仕える側に身を置きました」と言います。でも、教会に来られた方々に、「あなたはキリストによって罪から解放されて自由にされましたよ。だから、人に仕える人になりなさい。それがキリストのお心です」と言いますと、「ええ~っ、そんなら結構です」ともう来られなくなりそうです。

 

なんでそんな無理が生れるかと言いますと、それは「順序」を大事にしないからそんな事になるのではないかと思います。ここには車を運転される方、バイクを運転される方も居られますが、どちらも、ローからスタートしなければいけません。いきなりトップに入れて、さア~っと走りたいのですが、そうは行きません。オートマでもローからです。車はローからスタートするから動き出すのです。いきなり「深い信仰を持ちなさい」とトップに入れても走りません。普通の飛行機も先ずは前に進まないと飛びません。鳥もそうなのです。少し前に進むから翼に浮く力が生れるのです。ローから出る順序が在るのです。これを信仰に当てはめますと、私がキリストを信じる信仰と言うのですが、実は、「キリストが先」なのです。そこの所をしっかり考えて頂きたいのです。

 

 

私たちがキリストを信じる信仰を持つ前に、キリストが先に私たちの所に来て下さったから、私たちにキリストを信じる信仰が生れるわけです。キリストがこの世に来て共に歩んで下さり、十字架に架けられて殺され、しかし、復活された、こっちが先なのです。私たちは、その出来事を受けている、イエスの出来事を頂いているのです。ローでスタートするとは、イエスがスタートされた事なのです。私たちのスタートでは在りません。キリストがローで動き出して下さって、その動きに乗せて頂く、手を引いて頂きながら付いて行くのです。そこから私たちの信仰の歩みが始まります。イエス・キリストが先に動いて下さいます。その意味で、キリストが教会の頭です。上に在る頭ではなく、順序を表すのです。先頭を行かれる「頭」なのです。教会の頭かしらが先、イエス・キリストが先頭なのです。頭が先に動いて下さった出来事、これがキリストの福音なのです。そこに「キリストの信仰」、「キリストを信じる信仰」、或は「キリストへの信頼」が生れるのです。キリストのお心、霊、スピリットが私たちを導くために、すでに、先に動いて下さいます。