「未知の知」           2019年10月6日 

 

第一コリント8:1~3  招きの詞第一コリント1:18~25

 

 

 

 皆さま、お早うございます。今朝の奨励の題を「未知の知」としたのですが、元々は聖書を読んで頂いた様に「無知の知」と考えていました。コリントはギリシアに在りますので、ギリシア人たちは知恵を求めていました。そして「十字架の言葉」の「言葉」はロゴスですが、これは「心理学・サイコロジー」などの「ロジー」に当たる言葉です。ギリシアの知恵という事ではソクラテスという名前をご存知だと思います。彼は「無知の知」という事を言いました。話が少し反れますが古代のギリシア人たちは悲劇とか喜劇とか芝居が好きでした。その芝居の色彩は私たちがびっくりする程の色彩感覚だった様です。涙が緑の涙だったり現代でも驚く程だったのです。音楽が芝居に使われて、ミュージックとかリズム、ハーモニー、メロディーという言葉はギリシア語からです。もう一つ現代にまで影響を与えているのが「哲学」です。西洋の古典と言われています。人々はどんな会話をしていたかと言いますと、2800頃前に「昔は良かったな。それに比べると今は・・・」とか、「世の中、悪くなる一方だ」とか、現代の人々が語っている様な事を語っていたそうです。またギリシア神話もご存知だと思いますが、これも盛んでした。

 

 

 

 古代ギリシア人は「世の終わり、終末」という事も考えていました。でも、ユダヤ人たちの終末観とは違っていました。ユダヤ教では「ヨハネ黙示録」の様な終末観でした。旧約聖書ではダニエル書などに黙示録文学と呼ばれる形式が在りました。所がギリシア人の終末観は全く違います。「人間関係」の悪化で終末に至ると考えていました。父は子と心が通わず、客は主人と心通わず、友は友と折り合わず、兄弟同士も昔の様に親密な仲にはならず、年を取れば子はこれを冷遇視し罵詈雑言を浴びせ、年老いた両親に育ててくれた恩義に報いる事が無い。その事が正しいと考える輩によって互いの国を侵し合い、力が正義となり、恥という美徳は失われる。そうなれば人間には悲惨な苦労があるだけだ。だから災難を防ぐ術も出来なくなるだろう。そしてこの世が終わるのだ。この様な終末観を持っていたそうです。お互いが心を通わすことが無くなる、そんな時代になってしまうと考えたのです。いろんな終末論が在るのですね。現代にも通じる様で、古代ギリシア人に学ぶ事はたくさん在る様に思えます。

 

 ソクラテスは、彼が国家を掻き乱すという一種の国家反逆罪で死刑になります。その時の裁判で、自分が自分を弁護しました。裁判官は市民の中から選ばれた千人以上の人々が勤めました。最後は弟子たちが脱獄を勧めに来ますが、彼は応じないで、毒ニンジンから作られた毒を飲んで死にます。それがソクラテスの「弁明」という書物になっていますが、その中でこの「無知の知」という言葉を語るのです。ソクラテスは、ギリシアのアテネから北東に約300キロの所にあるデルフォイの神殿でお前が一番の知恵者だとご神託を頂きます。その神殿は知恵の神アポロンを祀っていました。それで彼はいろんな知者と言われる人に会って、それを確かめます。結局、自分が一番の知者だと思うようになります。それはいわゆる知者は知識を誇っているが、自分は、知らない事が在る事を知っているから、自分が一番の知者だと確信して「無知の知」という言葉を語るのです。そんな自分だからこれ以上望む事は無い。息子たちが身分不相応な態度を取る様なら厳しく指導してくれと言葉を残して、悠々と死刑になるのです。

 

 

 

 今朝はその言葉に近いのですが、自分には未だ分からない事が在る事を自覚する言葉として「未知の知」とさせて頂きました。私たちの人生では、幾つになっても未だ知らない事が在る、つまり、究めようとしても究める事が出来ない思いがあります。今朝はお隣の佐賀県みやき町に日本一と言われる76才の方を紹介したいと思います。何が日本一と呼ばれるのか、それは包丁を研ぐ事です。包丁の価値は値段でもないし誰が作ったかでもなく、その研ぎだと言います。人生を掛けて包丁を研ぐ事一筋で歩まれたのです。指もごつごつになってしまっています。応接間に170本ほど売り物の包丁が置いて在るのですが、それはどれも最低でも6万円はするそうです。お名前が坂下勝美です。その6万円の包丁も未完成だそうです。それでも家庭で刺身位は引けるものだそうです。しかしここから本当の研ぎが始まる。年に200本以上の包丁の研ぎ直しの注文が日本の一流の料理人から来る。彼らが「日本の宝」と呼んでいる人物です。

 

 

 

 坂下氏は「命を削って、心を研ぐ」と包丁を研ぐ事を言葉にしています。ただ包丁を手先で研ぐのではなくて、命を削って、心を研ぐのと同じように研ぐと言うのです。この話は先々週位にNHKの「プロフェッショナル」で放映されたものです。以下は坂下さんの言葉です。「自分の行く道は舗装されてもいないし、何もない。矢印もない。本当に自分は上っているのか下っているのかそれさえも分からない。でも現実にはまだ上が在るはずだ。まだ上がって行きたい。上って極めて行きたい。自分がやれる所まで行ってみたい。」それで坂下さんは「包丁を持って死ぬのが本望だ。多分、そうなるだろう」とも言います。「この道は誰が選んだのでもない。自分が選んだ道やもんね。苦しい事ばっかりだったよ。だけどこの仕事を止めようと思った事は一回もない。もうこれしかないと思っているから。」

 

 

 

この言葉を聞きながら、私自身がイエスに従う、聖書を読む、これも全く同じ、むしろ坂下さんの方が心構え、精神に於いても先輩だと思いました。私より若い方ですが、人生の歩み方としては先輩だと思わされました。私がイエスに従って歩む、それは私が決心した事です。それなのに、イエスのみ心の深さとか広さはとてもでは在りません。聖書を読む事に於いても、とても追いつけません。イエスの後を辿ろうとしても、とても出来ません。イエスは私が付いて行けない深い所まで降りて行かれました。遠くまで、山や谷を幾つも越えて行かれました。イエスに従うつもりですがとても付いて行けません。先ずは聖書をしっかり読む事が基本だと思います。でも聖書をしっかり読むとはどんな事なのでしょうか。ギリシア語原典は必ず読む事にしています。日本語への訳仕方が、これはどうかなと思う事もあります。でも文法や単語の意味だけでは、正しい聖書の読み方ではないと思います。勿論、これは基本で大事な事です。その作業を避ける事は出来ません。

 

 

しかしそれだけで済むわけはないでしょう。本当の聖書の読み方とは中々難しいです。そこでこの頃の指針は、多くの方々の人生、先程の坂下さん、いろんな料理人に方々、ドクターたちが苦労して生きて、道を拓いておられ、この方々の生き方を学ぶ事が、イエスに従う道の一つ二つを教えて頂く事になるのではないかと思っています。つまり、人生の達人に倣う。逆に、弱く小さくされた人たちの人生、別に名人でも何でもない方々の生き方、その姿にも倣う。その様な事を通して聖書を読む、そしてイエスに出会う事が出来ると思っています。聖書そのものから学びつつ、いろんな方々から学ぶ事でもあると思います。それは、イエスがこの世の全ての人に仕えて、導いて下さるのですから、他の方々の生き方からもイエスを受ける事は当然です。全ての人をイエスは支えておられるからです。人々を通してイエスを受ける、これは大事なイエスへの道だと信じます。