「洗礼を受けたイエス」2019年6月9日  ペンテコステ

 

マルコ1:9~11     招きの詞ルカ3:1~6

 

 

 

 皆さま、お早うございます。今日はペンテコステでイースターから50日目になり、使徒言行録では、聖霊が注がれた日です。(2章1~13節)福岡は未だ梅雨入りしていません。ここにアジサイが飾られていますが、バルト先生はあまりお好きではなかったそうです。焦点がはっきりしないからでしょうか。今朝は洗礼の事を考えて見ました。洗礼はクリスチャンになるのに必要な儀式として考えられています。形式も滴礼から、浸礼まで様々です。私たちはバプテスト派の教会ですが、これは体全体を沈めるというバプティズムの元の意味からで、身を沈める事は死を、水から上がる事が復活を現していると言われます。

 

 

 

 バプテスマのヨハネの源がユダヤ教の中にはっきり在るわけではないと申して来ました。先程のルカの言葉はイザヤ書からの引用でしたが、そこにはっきり「罪の赦しの為のバプテスマ」という事は書かれていません。それをヨハネは罪の赦しのためにと語っていたのです。ユダヤ教にはその意味の源は無いのですが、全く無いかと言えば、食事の時は必ず水で手を清める必要が在りました。イエスの弟子たちが手を清めないで食事をしたので、ファリサイ人から批判されましたね。食事以外でも水で体を清める事は或る人々には大事な事でした、ちょっと旧約を見てみましょう。エズラ記6章19節(p.731)「捕囚の子らは、第一の月の十四日に過越祭を行った。祭司とレビ人は共に身を清めていたので皆清く、すべて捕囚の子ら皆のため、また仲間の祭司のため、また彼ら自身のために過越しのいけにえをほふった。」と在ります様に、身を清める事は大事だったのです。そうでないと神殿の用は果たせなかったのです。

 

 

 

 ですから、水で体や心を清める事は既に在ったのです。ヨハネの教えは彼自身から始まった事でした。水で手を清める事から体全体、身も心も、そして罪も清める事になったのかもしれません。イエスの公生涯の第一段階(30歳頃)、バプテスマのヨハネの弟子だったとも言われています。第2段階はガリラヤでの活動です。第3はエルサレムでの裁判と死刑です。しかし、イエス自身はなぜバプテスマを受けたのでしょうか。神の子イエスが身を清める必要は無かったと思います。そこで、この形を取ったのは、父なる神とのつながりとして、父と直接につながるための一つの表現だったのかもしれません。父なる神もこれを受けて、聖霊を送られたとも考えられます。父と子の直接のつながり、これを現しているのだと今朝は考えました。今朝の「洗礼」の意味をこの「つながり」に於いて考えたい。通常、キリスト教、特にバプテスト派では、死んで甦る、それを象徴する儀式です。

 

 

 

 でも、イエスの洗礼を、父なる神とのつながり、より清い、より強いつながりの象徴としてみれば、私たちの洗礼も、父なる神、イエス・キリストとの、より清い、直接的なつながりの為だと考える事も出来ます。更に、これは私たちお互いのつながりの為だとも、つまり、一つの共同体の一員としての決意を現す象徴とも考える事が出来ます。私たちは教会の会員として一つの共同体としてお互いに交わり支え合い祈り合う事を願っています。この事を大事なポイントとして今朝は考えます。今はこの意識が失われている時代でもあります。引きこもりや孤独な人々の状況が見え隠れしています。コミュニティー意識が失われています。引きこもりは青年たちだけでなく高齢者にも広がっています。高齢者たちが他の人たちと交わる場所が無いのです。人々はバラバラにされてしまっています。

 

 

 

 スーパーとかコンビニとか、今までは物を売る場所でした。それがこの頃は売り場の面積を少し減らしてお茶が飲めたり食事が出来る場所を広く取る傾向にあります。それは独りぼっちの人が来て、お茶を飲んでるとそこに別の人が来て、時々顔を合せる事で、言葉を交わす場が生まれて来ているのです。つまりコミュニティーが少し取り戻される働きが在るようで、そこに注目してスーパーなどが店作りをして、人に来てもらう。そのための場所を、物を売るというよりも、「来てもらう」事をポイントにした場所が生まれつつあります。スーパーも今までは安くたくさん売る事が大事でしたが、段々、それだけでは認められなくなりました。一代で大規模企業になったけれども、その一代で消えてしまったスーパーも在りました。今は物を買いに行く場所としてだけでは受けなくなっているのです。人に来てもらい、一日過ごしてもらう、そんな事も大事になっています。コミュニティーの形成です。

 

 

 

 ペンテコステと言いますと、原始キリスト教会の姿が見えます。共同体が形成されていました。その仲間になるのに洗礼が評価されていました。イエスの洗礼もそうですし、パウロも洗礼を受けました。原始キリスト教会に於いて共同体に入るために洗礼が大事でした。なぜ、洗礼を受けなければならないのか。キリスト者になるためだけではなくて、共同体の意識の問題がそこに在ります。昔の日本の村落共同体では村人全体で農作業、特に田植えをしていました。そこで生まれたのが別れの挨拶「さようなら」です。ご存知と思いますが、その共同意識が強いので、誰かがそこを離れて行こうとするのを引き留めたのですが、どうしても班れていく人には、「それならば、気を付けて」、「それならば→左様ならば」の言葉でした。今は生活の糧を得るのも、みんなバラバラです。そんな中で地域の共同体を維持して行くのは難しいです。そしてただ仲よくとか皆でという事ではやはり、問題が起こって来ます。

 

 

 そんな中で、みんなをつなぐ働きをして下さる方が居るかどうか。教会ではイエスをその中心として信頼しているのです。共同体の一員である決意を現す意味での洗礼も在るのではないでしょうか。今までの考えは、死んで甦る事の象徴の意味で捉えていました。今の時代、孤独な社会の中に在って、共に祈り合い支え合う共同体に加わる気持ちを表す行為としての洗礼も在ると今朝は思っています。これからの、のぞみ教会が共同体として、単に仲良しグループで楽しく、というだけではなくて、何が中心なのか、バラバラな私たちを結び付けて下さる方、その方への信頼、それを大事にしたい。そこから私たちお互いのつながりを大事に出来るのではないかと思います。それが私の願いです。小さいから何でも通じる訳ではありません。私たちが一つになるように励まされ、導かれるその中心に折られるイエス・キリストへの信頼、それを受けて下さるイエスの繋がりの為の洗礼、そこから生まれる私たちお互いの繋がりへの信頼を現す洗礼を今朝は、受けています。主イエスよ、導いて下さい。