「なぜ、からし種一粒ほどなのか」   

                2019526

 

マルコ4:30~32   招きの詞ルカ12:27~32

 

 

 

 皆さま、お早うございます。先週は、あんなにも多くの方々に祝福されて、教会組織会議と感謝礼拝を持つ事が出来ました事は、とても人智では、自分の考えでは出来ない事だったと覆います。イエス・キリストの導きと祝福を感謝しますと共に、皆様方のご協力とお働きに感謝しています。からし種程に小さい事に拘っていますが、或る方からもう、小さいとは言わないでと言われました。この群れが小さい事よりも、イエスが神の国をからし種の様なものだと譬えられた事が、まだちょっとピンと来ていないのです。そこをもう少し考えさせて頂きました。

 

 

 

 神の国の大きさと言えば、どんなに説明しても出来ない、ピンと来ないと思います。例えば、宇宙の果てしなさ、その広さは、ここからあの星まで光の速さでも1億年かかると言われても、ほ~と言うだけで、何かリアルではありませんね。宇宙の不思議さ広さ、まだ宇宙の事はホンの僅かしか分かっていないそうです。そn宇宙をも包む神の国ならば、どんなに説明したら良いのか、どんなに譬えたら良いのか、その果てしなさ広がりはピンと来ません。逆に、大きさやその広がりが神の国の大事な事では無くて、神の国は、神の命が働いている所、神が治めて下さる世界ですから、神がその命を其処に住む者たちのために働かせて下さる事がポイントだと思います。その事を説明する中でイエスは、カラシ種の命を譬えに用いられたのです。どんなに小さくても命は命、大事なのは、その命の働きなんです。

 

 

 

 そこで私が思い出すのは、例えば久山療育園、重症心身障碍児者、今の医学では治す事が出来ない重症の障碍を持った子供や成人が生活していますが、その方々の命、その方々は車椅子で自分で動く事が出来ない、自分では食べる事も出来ない様な方々の命、そんな命も、命は大事なのです。命は抽象的と言いますか、「これ」と指し示す事が出来ません。命が在る事の結果と言いますか、それが働いている事の結果だけが私たちには見えます。英語では命はlife ですし、生活も life ですね。区別がありません。日本語では命と生活は違う感じですが、英語では区別がありません。人が生きている、それが命なのです。

 

 

 

 では、人が生きている、とはどういう事なのでしょうか。走ったり遊んだりしますが、基本的には、人と人との、人間同士のつながり方、関係性、出会い、そこが命なのです。そこに喜びの出会いが在れば、つながりが在れば、それは望ましい事です。しかし私たち人間の場合、必ずしも喜びのつながりばかりでは在りません。不信感で、あの人は私にどんな気持ちを持っているのか疑う時も在り、それは人間の歴史を見れば、悲劇性、悲しい事が沢山見えて来ます。どうして私がこんな目に遭わなければならないのか、そんな事が強く感じられる私たち人間のつながりです。

 

 

 

 そんな事ばかりを言ってはおれません。ヨーロッパでは、人間同士の理想の関係を「自由・平等・博愛」と表現しました。フランス革命の合言葉で、最も大事だと言います。でも、この三つは理想的かもしれませんが、すごく矛盾した言葉です。それぞれが自由で、しかも平等であり、自由なのにお互いが愛し合う、自由なら人を愛しようと憎もうと自由ですよね。金持ちになろうと強くなろうと平等とは関係ない、事になります。自由・平等・博愛、これをヨーロッパのヒュウマニズムと呼べるかもしれません。人間世界の理想像とされています。勿論、これには限界が在ります。これを掲げたヨーロッパが世界を巻き込む大戦争をしました。これを真似る日本もそうです。戦争をしなかった国は在りません。歴史を辿れば必ず争い、紛争が在ります。そこが人間同士のつながりの限界を示しています。

 

 

 

 必ず弱い者を犠牲にし、従属関係の中で、自分が一番、つまり覇権を握ろうとします。現在の中国とアメリカがそれで争い始めています。本当に人と人とをつなぐ力、つなぐ命は、私たち同士の力や命では出来ない事を歴史が語っています。でも私たちは世界が苦しければ、それを越えて希望を持ちたいです。実際に、悲惨な人間の状況の只中に、神は降りて来て下さり、この世のために働いて下さった出来事が起りました。この世の小さい人々や貧しい人々、病気に苦しむ人々、絶望の中に住む人々の希望となる様に、闘って下さいました。そのお働きが神の国なのです。それは私たちの世界では何処に神の国が在るのか、分かりません。見えません。見えない程です。その事を「からし種一粒のようなものだ」と語られたのではないでしょうか。

 

 

 

 神にお願いする、それは自分が頼りたい気持ちで創り出した神の姿で在って、神ご自身ではないかも知れません。神ご自身の写しかもしれないけど、神ご自身でないものを拝む事を人間はしていると思います。繁栄している姿、力、これを神の国だと勘違いしやすいのです。ですから教会堂も立派です。天に向かって聳えています。その建築にはお金が要るのでたくさんお金を要求しました。立派な、壮大な、そんな事を頼りにするのではなく、今直ぐには見えない程のもの、しかし、命が在るから必ず働いて下さる、イエスが働いて下さる交わり、繋がり、人同士の出会い、或る神学者は「関係性」の問題だと言っているのですが、お互いのつながり、出会いが大事なのです。一般社会では、自由・平等・博愛を理想としながら、現実には力が、お金が支配する世界、反対側はドンドン小さく弱くされていく世界になっています。

 

 

 その様な世界に私たちは希望を託すわけにはいきません。命を託すのではなくて、ご自分の命を懸けて働いて下さった方を中心とする交わりと群れ。それがこの教会です。教会は決して建物ではないし、繁栄した姿、ではありません。人間の矛盾がイエスを死に追いやりました。神を拝めという人々がイエスを死に追いやりました。私たちも、教会こそは、という気持ちになりがちですが、そこで傲慢にならないように、自分たちこそはという思い上がりにならないように、神の国は「からし種一粒」程に小さいと譬えられたイエスのお気持ちを受ける者です。イエスにこそ真理が在り命が在るので在って、私たち教会に命や真理が在る、と思い違いをしてはいけないのです。イエスの真理と命が、私たちを出会わせて下さり、良き繋がりを導いて下さる、そこに私たちの真の希望が在るのです。イエスの死を超えて今も働いて下さるから、イエスとの生きた関係が生まれて、私たちを導き、祝して下さっておられる、そこに神の国が在り、それを頼る事に私たちの群れの希望があります。主イエス、祝しお導き下さい。アーメン