「剣を取る者は皆、剣で滅びる」    2020年2月9日

 

 マタイ26:47~56    招きの詞ルカ6:32~36

 

 

 

 皆さま、お早うございます。中村哲先生は九大医学部の学生の時、九大YMCAの名島寮に住んでいました。今はその寮は在りませんが、九大が元岡に移ってから、一麦寮ができ、昨日、OBや現役生で、中村先生を偲ぶ会がその一麦寮で在りました。20名程は集まったと思います。先生の思い出や著書からも学べる事を互いに披露しました。同時にペシャワール会の事なども報告されました。

 

 

 

 中村先生は、今何をしなければならないか、という問題もあるが、今何をしてはいけないかを考える事も大事だと言われていました。今朝はその線で考えてみました。特に武力で平和と豊かさを求めてはいけないのではないでしょうか。日本の政治もかなり前から富国強兵の道を歩み始めています。世界中の国々も同じです。各国とも膨大な防衛費を使い、貧富の差には目をつぶっています。経済のグローバル化でどの国も格差は大きくなり、弱者は切り捨てられています。中村先生はアフガニスタンで寒さと餓えに震えている子供たちを見て、この子たちに銃弾は要らない。食べて暖を取るものが要る。先ず、生きよ!病気は後で治してやると言いました。この言葉を受けて、聖書の言葉として、私の目に飛び込んで来たのが今朝の言葉です。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」、この言葉の重さとリアリティをしっかりと受け止めたいと願います。

 

 

 

歴史を見ると、力の強いものが他者を力で制圧しても、その力は必ずや別の力に依って滅ぼされて来ました。「すべての道はローマへ通ず」とその軍用道路を誇ったローマも例外では在りません。エジプトも中東もヨーロッパも中国もその繰り返しです。また、昔から、洋の東西を問わず、敵討ちは正当化されて来ました。そして果てしなく、繰り返されて来ました。今や、その鎖、滅びへの鎖を断つ時ではないでしょうか。「『愛する人たち、自分で復讐せず神の怒りに任せなさい。』と主は言われる」と書いてあります。(ロマ書12:19)(「わたしが報復し、報いをする」申命記32:35)でも武力による他者の征服は力を持つ者には魅力なのでしょうね。

 

 では何が剣の代わりになるのでしょうか。それこそ中村先生が選んだ、「現地の人々との真の出会い」だと思います。先ずこれが一番最初ではないでしょうか。欧米の民主主義、議会制民主主義ではなく、また欧米の「自由・平等・博愛」の信念でも在りません。目の前の現実、生きている現実、そこで人々が何に困っているのか、それを真摯に受け止める事です。子供や人々の姿を直接見て、その状況を分かることです。「分かる」とは「分かち合う」事です。水が無い。食べるものが無い。他所から持ってくるだけでは、奪い合いが生じます。お零(こぼ)れを頂く乞食根性は駄目です。水が無くて、食料が生産できない状況なら、水を得る努力をする。そこで井戸を掘りました。1600本もの井戸を掘っても水は足りない。そこで地下水だけでなく、用水路を掘りました。室見川より長い25km以上の本当に長~い用水路です。川で子供たちが遊び、小魚を求めて鳥が舞うようになりました。

 

 

 

用水路を建設する資金も乏しい。日本の古くからの水利技術を学び、現地にもそれに似た技術が昔から在ったので、現地の人々と共有できたし、これからの維持管理にも役立つと、欧米式のブロックとコンクリートに頼よる用水路ではなかったのです。力学や計算も必要なので、高校の教科書から学んだとも言われます。現地の人々に技術を教える職業訓練学校も作られました。すでに3000人以上が卒業して力になっているのです。町には集会所を作り、人々が交流できる場を作りました。人々は「これで自分たちは自由になれる」と大きな喜びと希望を感じたようです。銃で他人のものを奪うのではなく、産み出す努力こそ大事なのだと、中村先生たちは、30年以上に亘って、地道な努力をされました。

 

 

 

 中村先生は、自分たちの努力は「一隅を照らす」事だったと言います。アフガンのホンの一隅を照らすだけだと言うのです。60万人以上の人々が、緑の農地に戻って来て、喜びを感じ希望を感じて、落ち着いた生活が出来るようになりました。この膨大の緑の農地は、一瞬にして出来たわけでは決して在りません。一つの大きな石を取り除けたり、小さな石を積み重ねたり、様々な土地の地面を掘る事も、気が遠くなる程の限りない作業を続けた結果なのです。用水路を掘るその先の地面も地形も見えない、岩だらけ石ころだらけの乾いた大地を掘る、いつまで続くのか、果てしなく思える、絶望的な作業の向こうにしか希望が無いのです。水が欲しいのに、水の無い乾き切った大地をただ一目散に掘り続けた、その魂を中村先生は何処から得たのでしょうか。そして先生が信じる通り、「天、共にあり」で、遂に用水路は実現しました。果てしなき絶望的な作業の向こうにです。

 

 

 

この精神こそ、ガリラヤの弱く小さくされた人々の現実をしっかりと受け止められた、イエス・キリストの教え、そしてイエス・キリストが歩んだ道ではなかったでしょうか。祭司長たち、律法学者たち、その他、当時の社会で上手く富を得ていたサドカイ派の連中、さらにローマの権力と戦ったイエス・キリストの闘いも果てしなく、絶望的な壁と闘う事でした。弱り果て打ちひしがれたガリラヤの民衆の現実をしっかりと受け止めて、村々、町々の果てまで歩き続け、人々を訪ね、励まし、生きる事へと導かれたイエスの地道な歩みこそ、果てしなく続く絶望しか感じられない道だったのではないでしょうか。「イエスは言われた。『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。』」(マタイ26:52~54)つまり、イエスは「剣を取る道も在る」という事でしょうか。しかしイエスは自分の死が見えていても、人々の滅びの道を選ばれなかった。

 

 

中村哲先生の「今何をしてはいけないか」は、国や政治や権力の話では在りません。私たちの小さな日常生活でも考えなければなりません。私たちは様々な力に依って生きていると思います。知力、経済力、権力、果てしなく力は蔓延っています。こののぞみ教会も何か力を頼む気持ちは無いでしょうか。個人的に自分の信仰を誇る事はないでしょうか。今、自分は何をしてはいけないのか。ガリラヤの弱く小さい人々を支えた主イエス・キリストです。小さな私たちもまた、命の底から私たちを支えて下さるこの方に信頼して、共に祈り合い、歩んで参りましょう。主イエス・キリスト アーメン