「命の風が吹く」           2019年2月10日       

 

マルコ3:1~8     招きの詞マタイ10:40~42

 

 

 

 皆さま、お早うございます。お久しぶりにご出席頂いた方々も含めてお一人お一人に感謝申し上げます。今朝は5週間ぶりにここに立ちますので、ピントがずれているかもしれません。お許しいただきたいと願います。近況の報告から始めさせて頂きますと、先週8日金曜日に1キロほど外を一人で歩いてみたのですが、以前の様な痛みは在りませんし、バス停でバスがかなり遅れたので10分以上立っていたのですが、それでも痛みは在りませんでした。手術前と全く違いますので、本当に有り難いなと感じています。後はリハビリをして筋肉を付けて、少しずつ歩けるようにしたいと思っています。本当に皆さまに祈って頂いたおかげだと感謝しております。入院中にこれからの説教の事をたくさん考えようと、メモ紙をたくさん持って行ったのですが、実は一つしか出来ませんでした。それを今朝お話するわけです。「命の風が吹く」という事です。中身は、私たちは教会組織をしようと致しておりまして、まあ、伝道所と教会は本質的には何も変わらないと思いますが、バプテスト連盟の中での立場がありますので、教会になろうと皆さんに提案しているわけです。すでに沢山教会が在るのに、一つ教会が増えるのにどんな意味が在るのかとも考えます。私たちが小さくてもどんな教会を目指すのかも考えておくべきだと思いました。

 

 

 

 皆さまはご存知と思いますが、風の意味のギリシア語は「プネウマ」です。ちょっとヨハネ3:8をご覧下さい。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」とあります。この時の風が、そうですし、「霊から生まれた者」の「霊」もプネウマです。マタイの山上の説教に出て来る「心の貧しい者たち」の「心」もプネウマです。ギリシア語のプネウマには「息」の意味も有ります。教会に吹く風は人を生かす風が吹くのだと思います。その様にお互いに喜べる場として共に歩みたいと願いますが、最初に理科の授業をします。風はどうして吹くのかご存知と思います。どうして風が起るか、二つの現象が考えられます。一つは高気圧によるものです。冷たい空気は下に降ります。降りて来る空気とそこに既にある空気の重さが重なって気圧が高くなります。地面にぶつかると外に向かって吹きます。(図1省略)

 

 

  これと反対が、温かく熱せられた空気が上に昇る事から起る低気圧の風です。その中心に向かって吹きます。(図2省略) 

 

これまでの教会は、大体高気圧の風が吹いていたのではないかと思います。天から神の子が降って来られて、この世に命の風を吹かせて下さる。天から神の愛が注がれる形です。そして教会から外に向かって、伝道するとか、宣教するという風が吹きます。(図3省略) 

 

  

その典型がカトリック教会で、法王がトップに居られて、下に向かって教えがなされるのです。プロテスタントの教会も多くがこの形ではないかと考えます。しかし、こんな形の教会は本当に温かいのだろうかとも思います。この形は、私たちの信仰心をかなり満たしてくれます。上からの尊いものを崇めて拝む。ですからオーム真理教も教組が超自然な力を持っていると見せかけて、拝ませるわけです。今でも拝んでいる人々が居るようです。

 でも今、私が聖書を読む限り、別の読み方が在ると思います。決して全く新しい読み方というわけではありません。今申した教会と反対の教会の在り方をこの頃ずっ~と語っているつもりなのです。その中心は、イエス・キリストの温かさと低さです。イエス・キリストは決してご自分を高いものとされませんでした。「自分はこの世に仕える為にきたのだ」(マルコ10:45)と言われます。ご自分を低みに置いて下さった。その低みの象徴が、ガリラヤです。異邦人の町と言われ、そこの極貧の人々に出会って行かれました。その低みに居られて、また温かさに依って上昇気流が起こって、周りからそのイエス・キリストに向かっての風が吹く、この形の風です。(図4省略)

 

 

この形の教会を目指したい気持ちです。天からの聖なる尊いものも大事です。でもイエスは私たちに仕える為に来たのだと言われる。下から私たちを支えていて下さる。イエスは決して上からの目線だけで語っておられるとは思えません。しかし、それでは仰ぎ信じるという信仰心は満たされませんので、あまり受け入れられないだろうなとは感じています。イエスは決して高い所から信じなさいと語ってはおられないと思います。

 

 

 

 例えば、先ほどマルコを読んで頂きましたが、手の萎えた人、そして安息日、この二つの事の前で、周りの人々はイエスがどうするのかを見ています。しかし、イエスにはこの手の萎えた人が大事なのです。この人が元に戻る事、普通に生きれる様になる、その為に「手を伸ばしなさい」と言われて、癒されました。その時に従来の中心的な神殿宗教者たち、律法を大事だと考える人々は何とかイエスを殺そうと相談を始めました。でもその強力な勢力に対して、イエスは屈することなく、方向を変える事をしませんでした。私たちは今までイエスの権威・力・恵みに向かって「有り難うございます」と感謝して来たように思います。しかし、イエスはやっぱり私たちに仕えて居て下さる、ガリラヤの人々に仕えて居て下さった、その様に低みに居て下さったイエスを聖書は語っていると思います。その事を最もはっきりと語ってくれているのが、今の所、マルコ福音書だと思います。これは私の思いですから、これを皆さまに押し付ける訳にはいきませんが、イエスは高みから、自分を拝む様にと私たちに語っては居られないと信じます。低みに居る形で、温かく私たちを支えていて下さる、そのイエスに向かって風が吹いているのではないでしょうか。図4の形です。

 

 

 私たちはこれまで教会のために、伝道とか社会奉仕とか、外に向かって働かなければならないと思ってきました。チラシを何千枚配ったとか、私自身が中々出来ないので、これまで余り言って来ませんでした。図3の形ではなく、図4の形で、低みに居られるイエスの暖かさに向かって吹く風に私たちは、包まれるのだ、この様な理解をして行きたいです。私たちは礼拝を通して、或は交わりを通して、このイエスの低さと温かさに共に触れること、これが先に選ばれた私たちの務めだと思います。ですから私たちが祈る時に、如何に低い祈りが出来るか、自分で言うのはおかしいですが、如何に温かみのある祈りをするのか、これが求められて居る、低く温かい祈りをする。この様な事を私はイエスに求められて居る気がします。

 

 

 

 でも、イエスに温かく支えて頂いている事、その事がいつも出来事と成って起って来るとは限らないのです。ここにもう桜が飾られていますが、桜は年中咲いてはいません。春が来て、つまり寒い冬を潜り抜けて咲きます。先ほどの「球根の中には」という讃美歌の中にも「寒い冬を潜り抜けて、春が来て花が咲く。その日、その時は、ただ神が知る」とありました。今度私が入院しましたが、初めは3か月待ちと言われたのです。その言われた時は「え~っ!」と思いましたが、どんどん時が過ぎて手術の日が来て、ず~っと寝たきりで身動きも出来ないのかと不安でしたが、何とかそこを潜り抜ける事ができて、手術前に感じていた痛みが全く無い、その状態に今は置かれているのです。時が動いて行って、苦しい時、痛い時、きつい時が在りました。でも、そこで終わる事ではなかったのです。時間が動いて行って、恵みの時、癒しの時、そして皆と共に喜び楽しむ時が来るのです。それが、イエスの命の風ではないでしゅか。

 

 

今直ぐとは申し上げることは出来ません。皆様方お一人お一人もいろんな問題を抱えて居られると思いますが、今直ぐかどうかは私には分かりません。今直ぐは来ない、とも勝手なことは言えませんが、その時が来る、或はイエスが支えて居て下さる出来事が起る、その風を私たちは受けているのではないでしょうか。入院して苦しい時も在りましたが、今はこうして、皆様方にお話する事が出来る所まで、回復させて頂いています。この様な命の風と申しますか、その様な風が在る事を今、私は皆さま方に語ることが出来て、お互いに支え合い、そして春が来る、花が咲く、その時を共に待つ、その様な交わりの教会で在る事を願っています。

 

 

最後に、招きの詞で読んで頂いた、マタイ10章42節をお読みしたいと思います。先ず新共同訳をお読みします。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」私の訳を読ませて頂きたいと思います。「アーメン、君たちに言っておきますよ。ここに居る小さくされている(貧しく弱くされている)人々の一人にでも、冷たい水を一杯でも飲ませてくれるなら、その人は、間違いなく、私を受けて居る者(私を信じている者)としての報い恵みを受けますよ。」最後の部分は「私を信じている者としての恵みを必ずうけるでしょう」と優しい響きなのです。新共同訳では「必ずその報いを受ける」と、良く言えば力強い響きですが、元の言葉は、断定ではなく、含みの在る言葉です。例え水一杯でも人に飲ませるなら、私は必ずその事に報いますよという優しい含みの在る響きの言葉で語っておられます。イエスのご決心として、「私はその人に報いますよ」との気持ちを含んで、私たちを今、支えて居て下さいます。そのイエスに向かっての風が私たちを包んでいます。