「低みに立って見なおし」 2020年年6月14日

マルコ1:14,15  第一コリント13:1~8

 

 皆さま、お早うございます。芳野さん、洗礼を受けられた事、おめでとうございます。その信仰決心に、そして何よりも、主イエス・キリストのお導きを心から感謝致します。今朝の聖書の個所は従来、「悔い改めて、福音を信じなさい」と訳されています。私たちが使っている新共同訳がそうですし、新しい聖書協会共同訳もそうなっています。何かしら、宗教的な、いかにも、キリスト教的な訳だと思います。これを本田神父は、「低みに立って見直し、福音に信頼してあゆみを起こせ」と訳しています。

 

この言葉について、モルトマンという神学者が言っている事をプリントしました。ご覧ください。これはモルトマンの「今日の神経験 希望、不安、黙想」という本で、もと西南神学部の松見先生が訳されたものです。(別紙参照)

モルトマンはバルトより40才若い、ドイツ人で、従軍して捕虜になり、そこで神学に触れて、イエスの十字架の苦悩と復活の希望から、「希望の神学」を生み出した神学者ですが、ここでは、これ以上は触れません。今お配りしたプリントの6行目をお読みします。「聖書に於いては悔い改めは方向転換であり、方向転換とは未来への方向転換である」。つまり、悔い改めは、「方向転換」だと言うのです。本田神父の「低みに立って見直し」とは、文字通り、低い所に立って、状況を見直す」という事です。「低み」とは、他の人よりも低い所に立つことです。

 

 そしてこの「低みに立って見直す」という言葉を、もう一度、聖書に照らして言い換えると、「愛すること」だと思います。誰を愛するのかと言いますと、第一は、主なる神です。イエスが言われた、最も大事な掟がこれです。(マルコ12:28以下、マタイ、ルカ参照)これは、私たちが疎かにしがちな大事な事ですが、「神を愛する」とは、中々、具体的にはどうすることなのか分かり難いことです。ややもすれば、観念的な、頭の中だけのことになりやすいと思います。つまり、「わたしは神を愛している(つもり)」という思いで満足し易いのです。そこで、イエスは第二の掟として、「隣人を自分のように愛しなさい」と言い、「この二つにまさる掟は他にない」と言いました。(前掲)

 

 その「愛する」、「愛」をパウロも次の様に言っています。第一コリント13章の初めからです。ご一緒に、声を出してお読みしましょう。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてに耐える。愛が決して滅びない。~~~それゆえ、信仰と、希望と、』愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

 

 「キリスト者として、クリスチャンとして、今までと違うこと、人を大事にする人になるように」と、イエス・キリストは言っておられます。イエス・キリストは、ガリラヤの弱く小さくされた人々を大事にされました。その結果、十字架に架けられ、殺されました。しかし、父なる神は、イエス・キリストの人々への愛を貫いた人生を認めて、イエスを復活させられました。そして、イエス・キリストの霊を聖霊なる神として、私たちの所に送って下さいました。子なる神・イエス・キリスト、父なる神、そして聖霊なる神は、ガリラヤの貧しい人々低みに立って下さいました。

 

 

 私たちもまた、低みに立って見直すようにと、主イエス・キリストに導かれています。共に、励まし合いながら、「低みに立って見直し、福音(イエス・キリスト)に信頼してあゆみを起こせ」との主イエスの言葉に従って歩みましょう。