「信仰のない私を お助け下さい」   2021年1月10日

    ユーチューブ配信礼拝

 

マルコ9:20~24  

 

 皆さま、改めて、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。新年早々、大変な船出になりました。福岡も幾つかの項目で、ステージ四の段階に当る項目が在ります。こんな状況で、個人生活もビジネスも、外出を控える、テレワーク、これまでと変わらなければなりません。買い物もインターネットでするので、それを運ぶ運送業が大変です。一方で、コロナ感染症で大打撃を受けて廃業するビジネスが在ります。例えば、人が来ないので、旅館、ホテル、飲食店などたくさん在ります。それとは逆に、感染症以前よりも大きな利益を上げているビジネスも在ります。食品のスーパーや、配達デリバリーサービス、情報や通信関係、トラックでの配送などは人出が足りない程です。こんな世界で、今は「変わる」という事が、流れになっています。

 

 教会もネット配信で讃美、礼拝を、お互いに離れて守る事になりました。今までは教会に来て集う、それがメインでした。今は教会が電波などを通じて外に出て行きます。これまでも歴史的に教会の在り方もだいぶ変わっています。第二次世界大戦で、ナチスも連合国も敵同士でキリスト教です。キリスト教会は全く権威を失くし。多くの人々は教会に行かなくなりました。ヨーロッパ全土荒廃し復興資金も在りません。西側諸国とソ連が対立する冷戦が始まりました。経済の回復も課題です。戦争中とは、状況が変わりました。今、コロナ感染症が収まらない中で、私たちの日常生活も教会も変わらなければなりません。でも、どの様に変われば良いのでしょうか。中々難しいです。教会に集う事が出来ません。変わって、教会が外に電波などを通じて外に発信する様になりました。今までは皆さんは日常生活を置いて、教会に出て来られました。教会のエクレシアとは、呼び出される事の意味です。でも今は外に向って、聖書の言葉、福音を届けるようになり、教会の形がこれまでも変わり始めています。

 

これまでも、イエス・キリストは教会の中ではなくて、ホームレスの人々が教会の炊き出しを受けるために並んでいる、その列の中に並んでいるイエスの姿を、アイヘンバーグが描きました。教会の玄関にその絵を飾っています。今やイエス・キリストは教会の外で、貧しく小さくされている人々の只中に居られ、その人々に声を掛け、励まして居られると理解され始めています。そういう状況で、今年も新しい形で、福音を理解し、皆様に発信したいと願います。そこで今朝は前にも引用した、息子が悪霊に取りつかれている父親の話を選びました。マルコ9章20節を開けて下さい。人々はイエスの弟子たちに願ったけれども、出来なかったと言います。そこでイエスが父親に、「こんな事になったのは、いつ頃からか」と尋ね、父親は「幼い頃からです」と答えます。自分の子を「息子」と言っていますので、幼児ではないでしょう。父親はこれ迄に何もしなかったでしょうか。弟子たちにも頼みました。神殿にいろんなものを献げながら、子供が癒される事を願ったでしょう。一度や二度ではなく、数えきれない程お参りした筈です。でも、治りませんでした。それだけではなく、律法についても、自分が何か律法に違反しているからではないかと、自分の生活を律法に照らして、厳しく反省もしたでしょう。安息日の規定を破っていないか、細かく反省した事でしょう。でも、治りませんでした。だからイエスの弟子に期待しましたが、駄目でした。だから、イエスに対しても、つい、「お出来になるなら」と言ったのではないでしょうか。これまでの父親の苦悩がこの言葉に現れていると思います。ここに至るまで非常に苦しみ悩んで来たのです。相当な努力をしたのです。

 

イエスが「出来るならと言うのか」と少し叱る様な口調にも取れますが、「信じる者には何でも出来る」と言います。私たちはイエスを信じていますし、信じているつもりですね。本当に心底から信じているのかと問われればどうでしょうか。例えばお金の事では、自分の計算をしています。イエスに対して完璧に信頼していません。この父親も半信半疑でした。しかしイエスに問われて、叫びます。「信じます。信仰のない私をお助け下さい」。この部分を気仙沼の山浦先生は、「ジャジャジャ、神様を力にいだしあんす!神様を力に思う心のたりねこの俺を如何なんじょにがお助けってくなんせ!」と盛岡弁を使って訳しています。神の力を信頼しなかった事の赦しを願っています。ワラをも掴む気持ち、貴方が最後の方ですという気持ちで必死だったでしょう。私たちクリスチャンは、イエスを信じる信仰が無ければならないと、それこそ信じています。私たちは神の掟をきちんと守らなければと思い、自分の信仰は大丈夫かと心配します。父親はずっと息子を癒してくれる力を求めて、自分が神を正しく信じているのか自問したはずです。しかし、イエスの前で、信仰が無かった事が分かりますが、それで良かったのです。イエスの前では信仰が無くても良いのです。「信仰の無い私を助けて下さい!」。イエスは信仰の無い人も、助けて下さる。勿論、信仰の有る人を助けて下さるでしょう。でも、無い人も助けて下さるのがイエスです。その息子は悪霊から解放され治りました。ですから、私たちは自分に正しい信仰が在るのか、心配する必要が在りません。自分の信仰から、私たちは解放される、つまり、イエスに対して「信仰の無い私を助けて下さい」と願う事が大事なのです。ちゃんと信仰生活を正しくしているか、聖書を毎日読んでいるか、お祈りをしているか、礼拝に出ているかなどの心配は要らないのです。私たちの叫びに、イエスが耳を傾けて下さり、近づいて来て、「どうして欲しいのか」と声を掛けて下さるのです。

 

 

今まで教会は、「信仰を大事にして、教会を大事にしなさい」と教えて来ました。しかしイエスは「丈夫な人に医者は要らない」と言われます。信仰の正しい人に医者は要らない、要るのは病人、つまり、罪人と呼ばれている人たちなのです。その人たちの為にこの地上に来たし、その人たちの為に自分は働くのだと言います。この事をはっきりさせるべきだと思います。私たちの信仰が大事ではなく、そこから解放されて、イエスと出会う出来事が大事なのです。朝起きてからイエスに祈り、出会う事です。決して難しい事ではないのです。イエスの福音は、あっという間に地中海世界に広がりました。何故か?イエスの喜びの出来事が、シンプルに人々に伝わったからだと思います。今日、カトリック教会の神父たちも、日本でいろいろ試みて居られ方々がおられます。これは、森一弘神父が書かれた「しんげん」という本です。この方はイエスのシンプルな福音をもう一度見直そうと言われ、「教会が、人の痛みに共感し、分かち合い、ともに人生を歩もうとする共同体になってほしい。それは、イエスの切なる願いである。わたしたち信仰者には、その願いにこたえる責任がある」。又、「今、日本の教会に求められる事は、古い衣を脱ぎ捨て・・・、今わたしたちは、『どこか遠いところでつくられた信仰様式』から、脱皮するときを迎えているのではないだろうか」とまで言います。つまり、欧米で発達した教理から、脱皮し解放されるべきだという事です。日本の今ここで生きる私たちの感覚、状況を大事にしながら、イエスの福音を新たにしっかり受け直すべきではないか、その時に至りつつあると信じます。今年も「信仰のない私をお助け下さい」とイエスにお願いしながら歩みましょう。イエス・キリスト お導き下さい。